活動報告(令和2年度6月11日)


6月11日の生命論では、まず「進化」と「共生」と言う言葉についての話から始まった。自分たちの使う「進化」は、+面を伸ばしていくイメージが強く、例えばテレビの「進化」はより画質が良くなったり、ゲームのポケモンならより強い技が使えるようになったりすることを指す。しかし、自然における「進化」では環境に適応した結果からだの一部が退化することもあり、+面だけではなく−面も含めた変化を指す。

また、「共生」についても、人間社会では「多文化共生」など、『協力』や『助け合い』といった印象があるが、生物の「共生」はそれぞれの生物が利己的になった結果、お互いに利益があるものが共生しているという違いがあった。


「進化」については、更にヒトとサルについての話があった。ヒトとサルは共通の祖先を持っているが、今動物園にいるサルがヒトに進化するのか、という話だった。もし、今いるサルが進化してヒトになったとしても、それは今の自分たちと同じ「ヒト」ではなく、新しいヒトになり、今のヒトがサルへと進化したとしても、同様に新しい「サル」になるということだった。


次に、生物の進化を説明する理論としてダーウィンの「自然選択説」とラマルクの「用不用説」「獲得形質の遺伝」についての話があった。


 「用不用説/獲得形質の遺伝」の例

あるキリンが高いところの葉を食べるために毎日首を伸ばしていて、最終的に1cm首が伸びたとする。するとそのキリンの子どもは「1cm長い首」と言う形質を親からの遺伝で持つ。その子どもも毎日首を伸ばしていると、本来の首の長さから2cm首が伸びた。更に(最初のキリンの)孫のキリンは元々「2cm長い首」を持って生まれてくる。これが繰り返されて、「首の長いキリン」が出来る。

つまり、本人の努力によって有利な形質を得て、それは次の世代に遺伝する、というものだった。

ただし、この説には欠陥がある。もしこれが正しいとすると、生物は努力によって形質を得ると同時にDNAが書き変わっているということになり、この説は「エセ科学」であると言える。


 「自然選択説」の例

首の長いキリンがいたとする。そのキリンがいた場所では偶然首の長いものが生き残るのに有利だったので、首の長いキリンが生き残り繁栄していったという適者生存

この「自然選択説」から成ったものが「進化論」で、更にそれに基づく「社会進化論」について後半は議論した。


自然では何が有利かを決めるのは自然環境だが、人間社会では何がこの基準にあたるのか、様々な意見がでた。

基準は「需要と供給」「生産性」などが上がったが、ではその基準に適応できないものは社会として切り捨てても良いのだろうか。

例えば、もう働けなくなった高齢者は切り捨てて、生活に対する保証もなくてよいのか?働きたくても働けない障がい者も切り捨てていいのか?

また、働く事などで経済的な価値を生み出せなくても、経済以外の需要のある世界が用意されているとよいのではないかと言う声もあった。


先に挙げたような基準に対して、適応できないならばそれは仕方のないことではないかと言う声があった。現に、今ある資本主義や能力主義も、資本や能力を基準としたシステムと言える。

ただ、この考え方では、自分がもしこの基準を満たさなくなったら直ちに切り捨てられると考えると、恐ろしいものでもあって、一概にそれで良いとは断言しづらいと思った。個人としてはたとえ基準を満たさないとしても最低限の生活を保証してほしい、するべきだと思うが、実際にどれだけのことが出来るのかは難しい問題だと思うし、だからこそ自分達が考えることが必要だと思った。



更新が遅れてすみませんでした。