原爆に関する内容 F.M


ヒロシマ・ノート」を閉じたあと、私の胸に強い気持ちがやどったような気がした。大江の文章は静かで、でもとてもあついものを感じた。正直普段読むような本とちがってなんだか難しくて、私には読みにくく思ったけれど、それでも伝わるものがあった。
この間の倫理の授業中、甲山先生が震災に関しての話で「いつまでも苦しさを背負って生きるのはしんどいから、私達は慣れていく。でも思い出して考えていかないといけない。」とおっしゃっていた。戦争を体験していない私達なんかは、お話を聞かせてもらったり学んだりしてその時は重苦しくて怒りや悲しみを感じるがまたすぐにヘラヘラするし、平和で楽しい時間に慣れている。そして体験した人は、苦しさや悲しみは消えなくても、いつまでも引きずらずにそれに慣れていく。もしくは慣れていったように見える。しかし、このエッセイに出てくる人々は、まだ少しも慣れていなかった。カサカサにかわいた黒い皮膚の死に瀕した老人やケロイドを隠し家に引こもる女性、白血病で亡くなった彼をおって自殺した原爆落下後に生まれた少女、他にも沢山、大江の書く彼らの言葉や姿は、よりリアルで重たかった。
例えば、ある被爆しケロイドを持つ母親は、奇形児を生みおとし病院が赤んぼうを処理した時、「あの赤んぼうを見れば、勇気が湧いたのに!」と嘆いたという。死んだ奇形児を見ることが勇気を恢復する手がかりになる、そんな極限の状態に生きていた。大江はこれを「通俗ヒューマニズムを超えた、新しいヒューマニズム、いわば広島の悲惨のうちに芽生えた、強靭なヒューマニズムの言葉として捕えられなければならない。」としている。この母親こそ、悲惨な戦争がつくりだした本当の人間の姿なのだ。また、大江が紹介している新聞のコラムでは、母親の胎内で被爆した19歳の娘が「ご迷惑をかけました。私は予定通り死んで行きます」という遺書を残して自殺したとある。特別被爆者手帳をもっていたが貧しくて家計のために働かねばならず入院治療をできなかった。コラムの筆者は「予定通り死んでいきますの予定通りに表現を絶したものがある」と言っているが、私もこの「予定通り」という言葉に胸が苦しくなった。疲れ果て、諦め、最後にのこしたこの言葉には想像を絶するものがある。
大江は「広島の外の人間は、このような噂によって、眼と耳に強い酸を注がれたような覚醒の一瞬をもつにしても、すぐそこから意識をそらしてしまう。」という。前にも書いたが、私達はやはり慣れてしまう。私はこのエッセイで綴られた重くリアルな話を読んで、「絶対に忘れてはならない。戦争はいけない。核爆弾はなくさなくてはならない。」と強く思った。でもきっと明日は戦争のことを考えたりしない。今もどこかで戦争はおこっているし、多くの国が核爆弾をもっているし、また日本でこんな悲劇がおこるかもしれない。たいしたことはできないけれど、何か少しでも私にできることはないだろうか。
「原爆碑を洗う中学生」では、アジアの国にはヒロシマに原爆がおちたことを、ヒロシマが日本が、アジアのほかの国々にやってきた迫害や虐殺を考えれば「当然の報い」だと言う人もいるとあった。ヒロシマは被害者であり、加害者でもある。それを反省してからでないと平和を呼びかけるメッセージは響かない。平和につなげるためにはまずは正しい歴史を学ばなければならない。私に出来ることの1つは、歴史をより深く学ぶことだろう。
 また、修学旅行先が広島になることを反対する小学生の「原爆などに興味がない。」という言葉があった。これから先、修学旅行生に戦争体験を語れる人はどんどんいなくなる。そうなればこのような子供たちや、大人がたくさんでてくるかもしれない。戦争体験を聞ける機会はのがさず、平和を維持するためにできることを考えること、そしてそれを伝えられる場面で伝えていくこと。これも私でも出来ることだ。
憲法9条の改正問題等、戦争が関わる問題が出てきた時、みんなが正しい判断をできるようにするためにも、歴史をたくさん学んでたくさん考えて、それを伝え続けることが大切だ。
私は、「ヒロシマ・ノート」を読んで感じた平和を望む強い気持ちを忘れず、自分に出来ることに取り組み続けたいと思う。

(読んだ本)
「原爆碑を洗う中学生」小林文男著