ラットの解剖 3B14

小さかったラットを約一か月半飼育し、私は昨日解剖した。先生はその日のうちに感想を書きなさいとおっしゃていたが、私はなかなか心の整理がつかなくて今日になってしまった。
先生の解剖中、私は以前行った鶏の屠殺・解体と、鹿の解体を思い出していた。どちらも私が「いただくため」にしたことで私にとっては気持ちの整理がつきやすかった。しかし、今回は「いただくため」ではない。私が「学習するため」だ。「学習するため」だけのために、私は生き物を殺していいのか。そんな迷いを持ちながら、ラットの解剖を始めた。
ラットを飼育室から運んで来たときには、ずっと「ありがとう。がんばるね。」となぜか言っていた。今思えばこの時点で私の中で、この小さな生命を無駄にせずに学習する、とう気持ちになっていたのかもしれない。ガラスの瓶にエーテルを入れてもらい、ラットをいれて揺すったりして死んでしまったか確認するときもやけに冷静だった。そんな中で感じたガラスの瓶からラットを取り出したときの、あの柔らかさは、忘れられないし、忘れたらいけないと思う。その柔らかさは、ラットがまだ生きていたときの柔らかさとは違っていて、私が殺してしまったことをやけに感じさせた。
鶏のときも鹿のときもそうだったが、皮がなくなると、もっと冷静になった。もちろん、ラットの体にハサミを入れるときは戸惑ったが、皮がなくなるとそこには生物の資料集で見た臓器が収まっていた。臓器を前にすると、臓器しか見えなくなって、ラットがさっきまで生きていたように感じられなかった。それでも、肝臓の後ろの大静脈を切ったときには、生きていたことがぼんやりと感じられた。肝臓は鮮やかで綺麗だったし、あんなに長い消化管が体のなかにぎゅっと詰まっていたことが印象的だったが、そのときの私にはラットが生きていた跡というよりは、学習対象としか考えられなかった。肺や心臓、脳、眼球...と取り出していくうちに、生物の不思議さや精巧さに惹かれていった。
後片付けのときの臓器を体に入れた姿や、新聞紙で包んだ姿は目に焼き付いて、忘れられない。

どれだけ解剖する前に思っていたとしても、解剖するときにはそんな思いはどこかへ行ってしまっていて、私はあの小さな生命をぞんざいに扱ってしまったのかもしれない。
そして、ふと生命論でわざわざラットを飼育して解剖することの意味を考えてみた。内臓の位置や色を知るためだけなら、生物の時間が適当だろうし、何より飼育する必要がない。このように悩むことこそが、飼育し解剖する意味なのではないか。
しかし、どんな綺麗事を並べようと、私は学習のためというだけで、飼育していたラットを殺し、解剖した。その事実は変わらない。これからこのことにどれだけ、どのような意味があったのか考え続けていくことが、私の義務だと思う。