8月28日 生命論シンポジュウム みっくい

1.不妊治療における倫理的問題
       産婦人科医 藤田先生

 (1)前回の内容から
   不妊治療を受けようというカップルのうち、3割は受精や着床が上手くいかないといった
  具体的な原因が判ったのち治療をするが、残り7割は原因が判らないまま治療をスタートする。

   生殖補助医療技術( Assisted Reproductive Technology:ART )
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    ⊃郵授精
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   人工授精
    タイミング法で妊娠しない場合、精子濃度が低い場合に行われる。
    正常の精子濃度は、1mm3中に3000万匹
             運動率50%
    人工授精が行われる場合の精子濃度は、1mm3中に500万匹
             運動率20%程度

   体外受精・顕微受精
    ’嗟駘業…排卵誘発剤を注射し、一度に10~30個の卵子を取り出す。
         そのため、女性に負担がかかり卵巣が腫れるなどの副作用が起こるが、
         症状がひどくない限り自宅で安静することとなる。
    ⇒饂劼寮熟度チェック…成熟した卵子を選び出す
    B粒絢?
    ぜ?些稜А沈沙劼伴?困気譴討い覆ぞ豺隋⊆_鵑亮N鼎らは顕微受精の対象となる。
         顕微受精での受精成功率は7割ほど。
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    胚移植後の経過を見る

 (2)社会と不妊
   結婚すれば子どもがいて当たり前という『社会』の考え方がある。
  結婚していても子どもがいない女性は、周囲から子どもはまだかと問われる機会が多い。
  『社会』は女性にある役割を押し付けているのではないだろうか。小学校高学年からの月経教育。
  月経が始まるのは将来お母さんになって子どもを生むためだよ、という女性には母親になる前提が
  あるように思える。また、社会通念として、女性には結婚→妊娠→出産→育児という一連の流れが
  ふつうだというものがある。
   女性には、子どもを授からないと『女性として不完全?』『一人前ではない?』という思いが
  生まれてくる。

   一方男性には、『社会』は一家の長になり後継者をもうけることがふつうだと言う。子どもを
  授からないと、女性と同じように『自分は半人前?』という思いが生まれる。

   不妊は夫婦2人のプライベートな問題として受け入れられているか。
  実際は、夫婦2人だけでなく、両親・友人・職場の人々といったさまざまな立場の人がこの問題に
  介入している。
   不妊治療を受けるカップルの多くは、他人の子どもや妊娠を素直に喜べず、うらやんでしまう
  経験を持つ。夫婦も他の人を意識してしまう。  

 (3)夫婦と不妊
   男女にはコミュニケーションの違いがある。
   ・男性…控えめな感情表現
       治療を実体験できない
       うまく妻を受け止められないから触れないでおこう
       どう声をかければいいのか
   ・女性…言葉による豊かな感情表現
       治療を実体験
       夫は治療に関心がない?子どもが欲しくないのか?
       話を聞いて気持ちを受け止めて欲しい

   治療がうまくいかず悩んでいる女性に近づきがたい、というのが男性の本音である。
  しかし、女性は男性に話を聞いてもらうだけで良いのだと思う。男性に、次にどうしたらいいか、
  答えを求めているのではない。夫婦で十分に話して、2人でゆっくり治療の方向性を決めていけば
  良い。
   夫婦が互いの差を認め、十分に話し合いを行うことは治療を受ける大切な基盤になる。検査や
  治療をどのように受けるのか、夫婦によって(これまでの治療歴・環境によって)色々な選択肢が
  ある。


 <感想>
 私は前回のレポート課題で不妊治療について、特に女性の心的負担について書いたので、今回の内容はまさにおおおおって感じでした(適当ですが)。レポートを書くにあたって、主にインターネットで文献探しをしていたのですが、そこには不妊治療を受ける方の声が多くあって、どれも考えさせられるものでした。というのも、不妊治療には数々のパターンがあり、夫婦の事情にも色々あり、どの例をとっても難しい問題ばかりだったからです。不妊治療での倫理的問題はむずかしいですね。できなくっても子どもがほしいものはほしいのだから、その気持ちは抑えられるものではないし。夫婦の不妊問題に介入してくる人にも、色々の気持ちがあるし。子どもが生まれる生まれないは、その当事者である家族、というか家庭(子どもの祖父母の世代も含めて)にとって、かなりのウエイトを占めることがらですし。多分。

 藤田先生のお話にも、霜田先生のお話にも『社会』という言葉がいっぱい出てきました。今日のシンポジュウムの中で、かなり自分をヒットしてしまった言葉です。そういう表現しかできないぐらいヒットしました。。。全体の質疑も終わって、堀先生と話して(少しですが)もっと解らなくなって。堀先生との話の中で、私が「(社会は)上に立ってみないと掴めないとおもう」と言うと、堀先生が「それは違うと思うな」って言いはって、あ、嘘やと思いました。上に立たないと掴めないというのは嘘やと。かといって、今の自分の存在では掴めるものでもないのは確かです。
 まぁそんなこんなで、帰りの電車の中でふと思い出して、あてもなく考えていました。そしたら、前に座ってるおじさん、相当人生生きてそうやけど社会を掴めてるんかなぁって素朴に思いました(おじさんに若干失礼ですが)。社会ってあやふやで、日本の社会という社会のほかにアメリカの社会とか、韓国の社会とかあって。日本の中にも色んな社会があって、すべてを掴むことはできるのだろうか、と。韓国とかに至っては、言語も理解できないし。まぁ言語とかいう問題ではないのだろうと思いますが。そもそも社会を掴むというのは、社会という存在を自分の中で噛み砕いて理解してみたいという、自分の気持ちから表れた表現だな、と次第に思い出して、そういう気持ちというのは誰もが持ってるのかな、などと、枝葉を追っていくような思考をしつつ家に帰った訳です。
 その脈絡のない思考のなかで、これだけは確実かもしれないと思ったことがひとつあります。それは「社会とは人だ」ということです。それだけです。あまり意味が解りませんね…でも、社会ってほんとうに掴めない霧みたいなものだから、意味が解らないのはしょうがないな。と。でも取り敢えず人だな。と。少し飛躍した考えですが。
 身体能力や思考能力などの差はさておき、社会をつくっている人は自分と同じ人なのに、どうしてこうもわからないのだろうという疑問が頭から離れません。今、私は無知の状態なので、余計に社会がわからなく、どでかいものに見えるのだなと感じます。
 私は家庭も学校も社会のひとつだと思うのですが、よく大学を出て「社会に出る」という表現があるように、家庭や学校は社会として認識されていないのかな、と思いました。イメージで考えると、社会には荒波があるということなのでしょうか。…本当に意味が解らなくなってきましたが、一般的に考えられる社会とはそんなものかもしれません。とりとめがないのでここで終わります。…長すぎました。。