シンポジュウムから

昨日はみなさんごくろうさまでした。藤田先生、霜田先生、田村さんのお話を伺っていて、一番考えたことは自己決定の問題です。自分自身のの問題について、他者に危害を与えない限り自由に決定し、実行しうるというのは近代の文明の大きな原則の一つです。しかし、本当に層なのだろうかという問題があります。確かに僕自身、自分の判断や意思を最大限尊重したいと思いますが、その自己決定とはそんなに単純なものではなく、とてつもなく重層的なもののような気がします。
 例えば、僕には子どもがいません。あえて子どもを持たないという決定をしたわけですが、それは僕の決定と同時に妻との共同的な決定であるわけです。そしてその決定は、僕自身の生き方を拘束すると同時に二人の生き方を互いに拘束しあう、あるいは責任を持ち合うという決定であったわけです。それはわたしの自由な意思による決定という意味で自己決定といえるのでしょうか。
 最近50歳を過ぎて、妻と冗談とも本気ともつかず、どちらが早く死ぬのかなあと話したりします。僕がかならず君を看取ってから死ぬよと冗談めかせていうと、彼女はわたしが死んだらせいせいして遊ぼうと思っているんでしょうと返事を返します。二人で生きるという選択をしたとき、僕の死はおそらく僕だけのものではなくなっているのでしょう。生きる責任というと、どうも重すぎる言い方になってしまいますが、そんなことも考えます。
 しかし、この世界で全く一人きりになって、ああ充分生きたと思ったとき、あるいはもう生きるのがしんどいなあと、思ったとき、自分が自ら死ぬという選択肢があっても良いという気もします。その時は、誰かの手を借りなければならないかどうかが大きな問題になるのでしょうか。
                
まあ、こんな事を考えていたということで、また改めて議論しましょう。

別件です。明日、8月30日、1時30分から、環境の授業で芦生に行った人たちの発表会があります。
そのコメンテーターとして立命館大学の先端研の遠藤先生に来ていただくことになっています。遠藤先生は、昨年生命論で講義をしていただいた松原先生の同僚で、この先端研には昨日の霜田先生の講義にも出てきた立岩先生もおられます。遠藤先生は生態学が専門で、そこから生命という問題を考えておられます。生命論にとってもおもしろい話が伺えると思いますので是非参加してください。

もう一つ、みなさんのレポートUPしました。リンクがうまくいってなくて昨日は見えなかったと思いますが、今はしっかり見えます。是非読んだらまたそれぞれ意見を上げてください。
                                    holly