ラット 解剖実習
7月14日
2ヶ月間育ててきたラットの解剖を行った。始めに獣医の川合先生に、解剖生理学とラットについての講義をしていただいた。解剖は何のために行われ、どのような存在意義があるかを学んだ。ラットの臓器の特徴や解剖の手順を写真付きで説明してくださり、とても理解しやすかった。この時の自分はまだ、今から自分が解剖する実感はなかった。わざと意識しないようにしていたと思う。
その後の川合先生による解剖のお手本を見ている時が1番辛かった。ケージに入ったラットのしっぽを掴んですぐに麻酔をするスムーズさに驚き大変なことをしてしまっていると思った。まだピクピク動いているラットの手足をテープで貼り付けハサミを入れている動作が怖くて自分がされているかのように感じ直接見ることが出来なかった。ただ、不思議なことに解剖されている最中のラットをみんなで見るという異様な状況に心がだんだん慣れていく。しっかり臓器を見て記憶するようになる。これを不思議という一言で済ませるのはいけないことだと思うが、他に言い表すことができない。数分前の自分はどこにいったのかわからないぐらい急激に感情の変化が起きていた。
自分のラットを解剖する番になった。先生が解剖したラットがまだ動いていたことから自分のラットは絶対に動かなくなるまで、意識が完全になくなるまで麻酔をかけようと思った。ペアの人が素早く麻酔をかけハサミを入れていた。自分もそれにならって頭を無にしてラットに麻酔をかけ手足をテープで貼り付けた。今思えばペアの人がラットを解剖することに躊躇していたら自分も引っ張られていた。危なかったと思う。それからは先生の見本を思い出しながらペアの人に教えてもらい解剖を進めた。心は一切痛まなかった。とにかく綺麗に隅々まで解剖しようという気持ちでいっぱいだった。お腹を開くと、臓器が所狭しと入っていた。絵の通りで綺麗だった。ハサミとピンセットを握る力加減を意識しながら上手く取り出せたと思う。首を切断する際はまた心が傷んだ。でもラットの顔を隠すとできた。顔がないと模型のように感じられるのかもしれない。
全てを終え思うのは生命がどんな形で表されるのかは運でしかないということだ。もし自分が人間じゃなくてラットだったら死んでいたのは自分だ。自分が解剖したラットがもしラットじゃなくて人間だったらあと数十年生きていた。今自分が命の危険を感じずに生きられるのは人間だからである。ならば生物実験など行わなければいいという考え方もできるが、薬の開発にはラットは欠かせない。人間の命を救うためにラットを実験台にしなければならない。人間の勝手だが自分に体の構造を教えてくれたラットが生まれてきた意味をなくさないように自分はこれからを大切に生きようと思う。
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