ラットの解剖 3A06

演示解剖に僕たちの""を差し出した友を密かに恨みながら、息絶えていくそいつを見ていると、なんとなくそのまま死なないような気がした。そのくらいラットの死はあっけなく、自然だった。僕がこれまで見てきた動物の死は、例えば血をまき散らしじたばた暴れる鶏であり、例えば内臓を取られてもがく魚であり、例えば明らかにやせ衰えた老人であったから、すこしづつおとなしくなり、眠ったかのようなラットは、腹を裂かれても事実僕の中で“死”を通過していない存在だった。一度卒倒したことのある僕が何事もなくここにいるように、僕のラットが、先生が解剖している途中ふと動き出す気がしたのは、実に不思議な気分である。だが、その時僕は、自分が「このラットは解剖されなければならない」と思っているのに気が付いた。再び動きだしたら、再び麻酔をかけ、腹わたを取り出さねばならない。そう感じたのである。そしてその時、自分はラットを殺すために育てたのだ、と了解した。僕はそこに、このラットを育てた意味を見出したのである。そして、ラットの残酷な運命を肯定しているその自分に、嫌悪を感じた。ラットは死という運命に従事する従順な子であり、限りなくいとおしく可哀想な存在に感じた。
が、一方で、2年前の環境論で鶏の首切りを手伝ったり、暴れる魚に真っすぐナイフを突き立てたりしたもうひとりの僕も健在で、そうした犠牲の上で人間は生きている、と思うと、生き物を殺すことは誰かがせねばならぬのであり――ごめんなさい、と言いながらなら、僕はラットが犠牲になることを肯定していた。

 だが、そののち僕は許せなくなった。僕は""に戻った。先生が臓器を取り出し始め、それに対する目線が好奇に傾いた(と感じた)とき、僕はラットの死を実感し、義憤――といえば偽善かもしれないが、それに近い感情を抱いた。好奇の目で見られるラットは哀れで、悲しかった。僕の中で、ラットは殺されるために生きても、見られるためには生きていなかった。ラットの頭が削られていき、顔が原型をとどめなくなっていく様は、直視するに忍びなかった。
 
 演示が終わると、自分たちの番である。実際にはラットを殺すのはひどく簡単で、えいっ、と麻酔薬の瓶に入れてしまえば、数分ののち死体となって出てくる。死体を切るのはもっと簡単で、皮を少しはげば膜が出てきて、膜を切れば内臓が出てくるという塩梅なので、見慣れた白い毛にハサミを当ててしまえば、あとは一瞬である。作業することにためらってはいられなかった。ただ、解剖途中に生き返るのは可哀想なので、十分すぎるほど麻酔を吸わせてやったのと、やはり頭だけは傷つけたくなかったくらいである。あとは、気を紛らわせながら切った。ラットの運命だと思ってしまえば、切ることに抵抗はなかった。それでもラットを新聞紙に包むのは悲しかったが、その時にはもはやごめんな、と手を合わせる以外の選択肢はないのであり、手を合わせて作業に戻った。
 
 その後、僕が""に戻ったのは、午後十一時ごろ、風呂に入っているときにである。もうあの飼育室に行かなくても良いのか、と思うと複雑な気持ちがした。白ねずみという連想から、『アルジャーノンに花束を』という本を唐突に思い出したが、脇役である白ねずみのアルジャーノンの死は、物語に大きな影響を与えていなかったのを思い出し、著者であるダニエル・キースにとっても所詮ねずみは物語の象徴でしかないのか、と感じた。中3の時にこの本で読書感想文を書いたが、その時の自分もそうであったな、と思うと、何となく空しいが、それが人間の他の種の死への捉え方なのかと思った。だが、この、育ててきたラットの死を、そのように捉えるのは、その死を無駄にしている気がしてならない。あの死体の重さ、感触、臭い、血...だけは忘れないで、あのラットの死から得た『何か』を考え続けたい。『何か』が何であるのかは、まだわかっていない。