優生思想についての討論 みっくい

「内なる優生思想」と「障害胎児抹殺の思想」分岐点について

というテーマをはじめに掲げて討論しました。まず、テーマを含めた今日の授業に関する
感想や意見を一人一人聞いていくことにしました。
そこで出た意見は障害胎児抹殺思想に反対のもの、障害胎児抹殺思想に賛成のものにわかれ、
賛成の方が多くありました。

 詳しい内容
  自分も知らないうちに優生思想を持っている。
  自分の子が五体満足であることを望む行為が、優生思想に入るのならば
  優生思想を真っ向から否定する事は出来ない。
  それでも、兵庫県の「不幸な子ども」という表現は間違っていると思う。

  優生思想が悪いイメージを持っているのは、ナチスの影響だろう。
  優生思想を持つことがイメージとして良い/悪いではなく、
  日々の生活の中から優生思想が生まれてくる、というのが実際のところではないか。
  日本の社会の中では、人より良いのが良いことだという考えが浸透している。
  健常者と障害者を分けて考えるのも、その表れだと思う。
  小学校のとき、障害を持った人の母親の話を聞く機会があった。
  近くに障害を持った人の存在や関わりがあれば、それによって解ることがある。

  内なる優生思想を批判するべきではない。
  自分の血のつながった子どもが五体満足であることを望むのは、
  本能的なものかもしれない。
  「内なる優生思想」と「障害胎児抹殺の思想」とを分けて考えることはできない。

  内なる優生思想はもっていても仕方のないもの。
  しかし、抹殺思想は危険だ。内なる優生思想も少し危険だと思う。
  問題を考えるときには、自分の触れた経験に基づいて考えるので、
  幼少からの経験が深く関ってくるのではないか。

  障害を持った人をかわいそうだと思う心は、内なる優生思想だ。
  障害は遺伝子的な特徴である。優生思想は、その特徴を否定する動きだと思う。
  すべての人間が同一の存在になることを目指しているのか、と疑問が浮かぶ。
   自分の小学校では、養護学級でひとりだけ別の教育を受けている子がいた。
  小学校のときの自分は、それをかわいそうだと感じていた。
  これも優生思想のひとつだと思う。

  現代の日本の社会は優生思想から成り立っている。
  今、自分達に迫る受験にしても、誰よりも良いものを目指すという思想がある。
  この状況を、いかに自分の中でかみ砕いて理解していくかが重要だ。
  抹消思想は命を削ることだ。しかし、自分の子が障害を持った子である場合、
  育てていくことができるか。そう考えると、わからなくなる。
  抹消思想も仕方のないことと思ってしまう。

  世の中に障害を持った人がいなければ、社会は成り立たないと思う。
  障害を持っていてもいなくても、生まれた後の人生でそれぞれ色んなものを抱える。
  その人自身にとって、正のものも負のものも。
  障害が正か負か、という問題は持った人が感じることで、兵庫県の表現のように
  負と決める考えは間違っている。
  人によって違うものを持っているからこそ、社会は成り立つのであって、
  障害を排除してしまえば、社会のバランスを崩してしまうように思う。

  ずっと足が不自由な人と、事故に遭って一時的に足が不自由な人とを考えたとき、
  違うイメージを持つのは何故だろうかと疑問に思う。
  障害を持った人と持っていない人に対して持つ印象には差がある。
  その差はなんだろうか。


小学校での経験の影響について触れた意見が多く、最初に掲げたテーマから脱線し、
小学校の状況はどうかという話に広がりました。

小学校と養護学校という段階で線が引かれることがある、養護学級でもそう言える、などの
問題が挙がるとともに、小学校では障害を持った人と持っていない人を一緒にした方がよい
という主旨の意見が出ました。


内なる優生思想を自分も少なからず持っていることを、自分自身どう感じるのか。

難しいと言えばそれまでですが、今日は考えること自体に意味があったのだと
私は思います。