認知症と付き合っていく    C組15番

 

認知症」とは老いにともなう病気の一つです。さまざまな原因で脳の細胞が死ぬ、または働きが悪くなることによって、記憶・判断力の障害などが起こり、意識障害はないものの社会生活や対人関係に支障が出ている状態をいいます。日本では高齢化の進展とともに、認知症の人数も増加していて、65歳以上の高齢者では平成24年度の時点で、7人に1人程度とされています。なお、認知症の前段階と考えられているMCI(1)の人も加えると4人に1人の割合にもなります。

1MCIMild Cognitive Impairment

正常と認知症の中間ともいえる状態のことだが、日常生活への影響はほとんどなく、認知症とは診断できません。MCIの人のうち年間で1015%認知症に移行するとされています。

はじめに、基礎知識として、認知症になると具体的にどのような症状が出るのか、実例を交えながら紹介していきたいと思います。まず、認知症患者に必ず見られる症状として、ものをしまった場所や置いた場所が思い出せない、何度も同じことを聞いたり言ったりする、などといった「記憶障害」が一番に挙げられます。これは私たちのような自覚のある物忘れとは違い、自覚がなく、それゆえに日常生活に支障が出てきます。また、認知症では最近のことからだんだん忘れていくという特徴があり、さらにこの記憶障害は、進行していくと、使い続けてきた身近な物の使い方が分からなくなったり、言葉の意味も分からなくなって「あれ」とか「それ」とか、よく使う特定の言葉だけを使うようになったりします。この他の症状としては、自分がどこにいるか分からなくなったりする「見当識障害」や、人違いが多くなったりする「判断力の低下」がみられます。次に、認知症患者個人差がある症状の例として精神的なものの代表が、被害妄想です。たとえば、財布や通帳などが誰かに盗まれた、誰かが隠した、と思い込みいじめられている、食事をだしてくれない、毒を盛られている、などがあり、また認知症では幻覚(幻聴は少ないケース)を見る人が多くいます。そのほか気をつけなければならないのが、身体的な症状である、「徘徊」や攻撃的な行動で、近年これらが原因となる様々な社会問題を引き起こしています。


図 省略


日本では現在、65歳以上の約10%が認知症と言われています。さらに詳しく言うと、70歳までの認知症有症率はわずか1.5パーセントなのですが、それから歳をとるごとにどんどんパーセンテージが増え、85歳ぐらいになると27パーセントもの高齢者の方々が認知症患者だと言われています。現在、日本国内に250万人以上もの認知症患者がおり、その数は今後も増え続けていきます。そして2020年を迎えるころには、さらに50万人弱増えると想定されています。

そんな、もはや国民病ともいえる認知症ですが、認知症患者が増えるにつれて同時に増え続けているのが、それらの人々が起因となる事故・事件です。果たしてこういった事故・事件の責任の所在がどこにあるのか、これが私が今日本全体で考えていく必要のある問題だと思います。そこで、実際にあった、認知症患者の問題行動が引き起こした鉄道事故を例にして考えていきたいと思います。

愛知県大府市200712月、徘徊症状がある認知症の男性(当時91)が電車にはねられ死亡した事故をめぐり、JR東海が男性の遺族に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が昨年424日、名古屋高裁であった。長門栄吉裁判長は、妻(91)のみに約360万円の支払いを命じた。判決で長門裁判長は、重度の認知症だった男性の配偶者として、妻に民法上の監督義務があったと認定。外出を把握できる出入り口のセンサーの電源を切っていたことから、「徘徊の可能性がある男性への監督が十分でなかった」と判断した。一方、JRが駅で十分に監視していれば事故を防止できる可能性があったとも指摘し、賠償責任を5割にとどめた。(引用:時事ドットコム)

この事件は、書いてある通り、重度の認知症患者の徘徊によって起きたものですが、配偶者である91歳の妻に賠償請求を言い渡したこの判決に対し、様々な意見が飛び交っています。介護の現場や遺族側の弁護士からは、今の社会では、認知症の患者の保護について、家族だけに責任を負わせるのではなく、地域で見守る体制を築くことが必要だと思われるが、判決はその流れに逆行するものだと判決に対する批判の声があがっています。そのほかにも、認知症の人が増え続けるなか、国や社会の支援が整わないまま家族の責任を重く判断したことは家での介護を断念する風潮を呼びかねない(早稲田大学法学研究科・棚村政行教授)といった、社会への影響を危惧する意見が多くあります。しかしその一方、通常通り運転していたJR側に非はあるのか、列車を運行する側からすると、迷惑を及ぼした相手が認知症であろうが、悪意があろうがなかろうが、他人に迷惑をかけてもよいとはならない、男性の出入りを感知するセンサーの電源を入れていなかった家族に責任がある、などといった判決の妥当性を主張する声も少なくありません。裁判の争点はもちろん「遺族の責任をどこまで認定すべきか」ですが、介護する人の感じ方や見方は異なるもので、「老老介護で疲れ果てた高齢の妻に、高額賠償を本当に命じるのか。他に解決策はないのか」ということです。裁判所が賠償責任を認めた理由のひとつとして、この事故で亡くなった男性は、認知症の症状が重く、責任能力はなかったとしていますが、妻と長男の二人については、過去の徘徊歴などから事故は予見できたとして、防止策を怠った責任があったとしています。つまり、この訴訟で賠償責任が認められたのは、認知症の人の介護者には「監督義務」が発生するから、だと考えます。 「監督義務」の範疇は認知症の人が起こした行動のすべてとして良いようで、それはつまり徘徊の結果の列車事故も含まれ、列車事故等を起こさないようにする義務を負わされているととらえることができます。監督義務は介護への関与が深いほど重くなるようで、事実、二審では同居の妻のみに賠償責任を負わせています。この辺も微妙で一審では介護に協力していた息子夫婦にも賠償責任を含む監督義務を認めています。簡単に言えば、積極的に介護にあたるほど監督義務が重くなり賠償責任も重くなるぐらいで良いようです。この監督義務に免責的な条件があるかどうかは、これまた曖昧なところのように感じます。改めてJR側の主張を確認すると、JR東海側は「センサー付きのチャイムを作動させるなどの措置を講じていれば、事故は防ぐことができた」などと反論し「監督義務を適切に果たしている家族には何の影響もない」とした。(4/21日経記事) とあります。

これがまた判断の難しいところだと感じます。結果として事故を起こせば監督義務違反として賠償責任が発生するのか、防止措置が一定条件に達していれば免責になるのか。今回の事故ではJRの主張する「センサー付きのチャイム」を妻は切っていたとなっています。では切っていなければ、徘徊が起こり事故となっても免責になるのかどうかは容易に判断することはできないしそれこそ実際に事故が起こらないと判らないことだと思います。賠償を請求するかどうかは鉄道会社の裁量で、結果として事故が起こった事を重視して賠償を請求するのか、センサー付きのチャイムがあった事で放棄するのかは「わからない」です。別の報道では自力でヘルパーを雇う事にもJRは言及しているようで、このことから結果論を重視しているように感じます。しかしセンサー付きチャイム、ヘルパーを雇った状態でも徘徊を100%防止できると言い切れる人間は少ないのではないでしょうか。今回は妻がうたた寝している間に家を脱出して徘徊行動に至っているという訳ですが、これがトイレやお風呂であっても同様の事は起こりえます。完全な監督のためには1人では無理な部分がどうしても出てきてしまい、常に2人体制以上で監督できる余裕のある家庭などは限られるのではないかと感じます。相手は24時間であり、さらに期間も3日や4日の話ではないからです。そして、なにより問題視すべきと考える点は、この判決による社会への影響であると考えます。判決によると、認知症の親を積極的に介護した者は重い責任を負うことになります。これでは誰も介護できなくなってしまいます。判決は、死亡した認知症の男性の子どものうち長男だけを「法定監督義務者や代理監督者に準ずる者」として、親を監督する義務を負わせました。「法定監督義務者」とは例えば未成年の子どもに対する親権者で、「代理監督者」は子どもを預かった保育園の保育士さんに相当します。(東洋大准教授・柴田範子さんの毎日新聞コラムより抜粋) しかし、高齢の親に対し、非常に厳密な見守り義務や介護の義務を家族に負わせる法律は現在の日本にはなく、従って今回のケースでは、認知症男性の法定監督義務者は存在せず、当然その代理もいないと判断するのが妥当であると考えます。認知症の父親を24時間、厳密に監督して、その行動に全責任を負う義務も「準じた義務」もなく、判決の論理は現在の法律上においては、到底無理があると考えます。

認知症の男性をはねたJR東海について、「線路上を常に職員が監視することや、人が線路に至ることができないように侵入防止措置をあまねく講じておくことなどを求めることは不可能」として、国は注意義務違反を認めませんでした。しかし、ただ免責するだけでは事故の教訓は生かされないので、ホームや踏切など施設の安全性を向上させていく鉄道会社の社会的責任を指摘すべきだったのではないかと感じます。認知症の人はどこかに行きたい、ここを出たいと思い立ったら必死に出て行くもので、家族がどれほど注意していても徘徊は起きてしまいます。そこで、家族の責任だけを問うべきではなく、何らかの公的補償制度を国が一体になって検討すべきだと考えます。24時間四六時中の見守りは、自宅介護の場合だけでなく、グループホームや施設でも不可能で、それを求めれば、拘束したり閉じ込めたりになりかねず人権侵害につながる、と指摘するのが「釧路地区障害老人を支える会(たんぽぽの会)」の岩渕雅子会長で、「介護に携わっていなかった親族は責任を問われず、介護した家族が責任を問われるのでは誰も介護をしなくなる。認知症の人が外に出ないように、家族が外から五寸くぎを打ち付けて介護していた時代に戻ったら困る」といった、社会としての早急な保障システムの構築を訴えています。

北海道釧路市では20年前から、行方不明の認知症の人を地域ぐるみで捜索・保護するネットワークをつくっており、今は行方不明者が出ると、警察が保健所や福祉事業所、連合町内会やラジオ局、ハイヤー協会、トラック協会など約360団体に呼び掛け、地域ぐるみで捜すようになっています。しかし、事故をゼロにすることは困難で、岩渕会長は「鉄道事故が起きれば鉄道会社も経済的な負担を負う。それを会社が負うのもおかしい。新たなシステムづくりが必要だと思う。取り組みをやめれば楽だし、家族の介護負担を一緒に担わなくても自治体は責任を問われない。だが、今も取り組みを進める。認知症になっても、それ以前と変わらぬ暮らしができる町にするのが願いだ。」と取り組みに対する思いを語ります。また、「認知症の人を地域で支えるには、理解と合意を積み上げて行動を起こすのが回り道に見えて最短の道だ。」と語るのが、認知症介護研究・研修東京センターの永田久美子部長で、鉄道会社にも見守りのネットワークに参加してもらうことで、どんどん網の目は細かくなっていくが、それでも事故は起こるもので、個人や鉄道会社にのみ責任を負わせるのではなく、鉄道事故や自動車事故などで生じる損害は社会で保障する仕組みが必要だと深く感じます。そして、社会的な見守りや支え合いの合意をつくり、損害をどう分かち合うかを議論したのちに、人と費用と制度が全て一体となった支えをつくっていかなければなりません。

ちなみに20131年間で、認知症で行方不明になったと警察に届出をされたのが約10,300人で、そのうち390人が死体で発見されたそうです。(警察庁より2014514日発表)

認知症で徘徊する患者さんが人や会社に迷惑をかければすべて介護者の責任にされるのなら、患者さんの自由を奪う行為、つまり事実上の身体拘束が激増することは間違いないといえます。認知症の問題は社会全体で考えていく必要があり、JR東海の事故のようなことが起こったときにお金が保証される損害保険のようなものがあればいいという案にも、保険に入るお金がないという人が出てくることは避けられません。町中に監視カメラをつけるとかGPS機能のついた腕時計を装着させるなどという案にも、人権侵害ではないか、という意見がでてきます。いま社会全体で共有すべきなのは、家族だけで認知症のケアはできない、ということです。医療機関介護施設、介護サービスなどにも限界はあり、社会全体でこれからの認知症対策を考えていく必要があるのです。北欧では高齢者の認知症対策が上手くいっており徘徊する者はいない、と言われることがあり、見習えるところはあるかもしれませんが、日本の方が高齢化は進んでおり、社会保障のあり方も異なるため、そのまま北欧のシステムをまねるだけでは上手くいかないでしょう。日本はいま日本独自の認知症対策について国民全員が真剣に考えなければならない時代に入っていると感じます。

 
 

出典:

よくわかる認知症Q&A 知っておきたい最新医療とやさしい介護のコツ(遠藤英俊/中央法規出版)

NHK解説委員会http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/172073.html

時事ドットコム「JRへの賠償を5割減=妻らの在宅介護を評価-認知症男性の徘徊事故死・名古屋高裁