断種と優生学


○断種に関する基礎知識

断種

輸精管・輸卵管を手術して子どもをつくる力を失わせること。(国語辞典より)

優生手術と呼ばれることもあり、優生学に基づき、ある集団あるいは個人の血統(種)を断つという側面も持つ。

優生学

人類の遺伝的素質を向上または減退させる社会的要因を研究して、悪性の遺伝的素質を淘汰し改善をはかることを目的とした応用遺伝学の一分野。(国語辞典より)

ハンセン病

1873年にアルマウェル・ハンセンによって発見された「らい菌」による感染症のこと。かつては「らい病」と呼ばれ、体の末梢神経が麻痺したり、皮膚がただれたりする状態になるという特徴をもつ。

ハンセン病の歴史

1873年 ノルウェー人のハンセンが「らい菌」を発見する

1889年 フランス人のテストウィド神父が御殿場に私立の複生病院を設立する

1895年 イギリス人のハンナ・リデルが、熊本に私立の回春病院を設立する

1907年 「癩予防に関する件」が制定され、放浪患者が隔離される

*「癩予防に関する件」

  …「放浪癩」と呼ばれる患者や元患者を、療養所に入所させるための法律。

   対象が限られていたため、入所者数はハンセン病患者全体のおよそ5%だった。

1909年 全国5か所で公立療養所が開設される

*「癩予防法」

  …「癩予防に関する件」を作りなおした法律。

   この法律の制定により、日本中のすべてのハンセン病患者を、療養所に隔離できるようになる。

   また、この法律に前後して行われた「無らい県運動」により、ハンセン病をすべてなくそうという「強制隔離によるハンセン病減滅計画」が広まる。

 
1931年 「癩予防法」が制定され、隔離の対象となる患者が増える
 
 
 
 
 
 

1943年 アメリカ人のファジェットがプロミンに治らい効果があることを発見する

*「らい予防法」

 …「癩予防法」を一部作り直した法律。

   「強制隔離」「懲戒検束権」などは残したまま、患者が働くことを禁止し、療養所入所者の外出も禁止することを規定した。

 
1953年 「らい予防法」が制定される
 
 
 
 

1996年 「らい予防法」が廃止される

ハンセン病と断種

ハンセン病患者は、結婚する際『ワゼクトミー』と呼ばれる断種手術が義務付けられていた。これは、優生保護法に基づき行われた、輸卵管や輸精管を切断する手術のことである。

しかし、ハンセン病の感染力および発病率は極めて低いと考えられている。いつも患者と接している国立ハンセン病療養所で働いた職員でハンセン病に感染した人は確認されていないからだ。

ではなぜハンセン病患者に断種手術が義務付けられていたのだろう。その理由の一つとして、産まれたばかりの赤ん坊を排菌の恐れのある患者の膝元で育てることで伝染の可能性が高くなるということが挙げられる。くわえて、女子は妊娠・分娩することで症状が悪化し、重症に陥ったりもするので、母体を守るという一面もあった。

この手術が義務付けられる前には妊娠した方もいたが、当然のように中絶・堕胎させられた。このとき、母体から取り出され、命を断たれた赤ん坊はホルマリン漬けにされ、実験や医学の教材に使われたそうだ。

 

○隔離政策に反対する意見

・国は患者のことを全く考えていない

ハンセン病の発病は体質によるところが大きい

ハンセン病は不治の病ではない          etc.

 

○自分の意見

私は、今回のハンセン病という例に限っていえば、国の政策に賛成だ。

現在では医療が発達し、ハンセン病は比較的治療しやすい病気になった。しかし、当時は未知な部分も多かったため、何よりも優先して対処しなければならなかったのが「被害の拡大」であったことは想像に難くない。仮に、ハンセン病の症状になにか命にかかわることがあったとする。そのうえで、感染力も高かったとすれば、今回のような政策を取らねばかなり多くの命が失われていただろう。症状や感染力、発病率などの様々な情報がなければ、対策を立てようがないのだ。そうなれば、患者の命とそれ以外の国民の命を天秤にかけるという、我々には到底想像できないような重い決断をしなければならなくなるのだ。

確かに、患者のことは考えられていなかったのかもしれない。しかし、一つでも多くの命を救うためには必要な決断であったのではないだろうか。また、現在を生きる我々が、未知のハンセン病という病気におびえることなく過ごすことが出来ているのも、当時のたくさんの患者のおかげであるということも忘れてはいけない。

 
 
 
 

優生学

ここまでで述べてきたのは、ハンセン病という病気とそれに基づいた断種手術についての私の意見である。

ここからは、優生学という視点から断種を見ていこうと思う。

優生学に基づいた考えで断種するということはつまり、遺伝病や感染症の患者を悪性とし、その種を断つということである。

 

○「アーネンエルベ」

もともとは1933年に設立された民間団体であったが、後にナチス・ドイツの公式機関となり様々な研究が行われた。

そこでの多岐にわたる研究項目のなかに「人種・遺伝問題研究部」と呼ばれるものがあり、捕虜の人体実験をはじめ、数々の非人道的研究実験が行われ、数多くの人間が実験台にされて苦悶のうちに死んでいった。

ここでは“優越民族”アーリア人種の純血を保存するために“劣等民族”を絶滅させる目的で断種が行われたという記録がある。記録には、アウシュヴィッツ収容所の囚人に対して薬剤・外科手術・強力なX線照射など様々な方法で行われたと記されている。

 

○「レーベンスボルン計画」

1万人の会員を擁する9つの支部からなるそしきで、1936年にテスト的に創立され、1938年にミュンヘンで正式に登録された。

この組織の目的は、出来るだけ多くの(遺伝子的に)エリートをナチス親衛隊に所属させることであった。

ここでは、7歳になると「国民学校」に入学させられた。ここでの授業は、それまで行われていたものに「人種学」と「優生学」が加えられたものであった。

人種学の授業では、「アーリア人種こそが優秀人種であり、ヨーロッパを支配することになっている」と教えられ、優生学の授業では、「アーリア人種は健康なアーリア人種とのみ結婚すべきであり、非アーリア人種と結婚してはならない」と教えられた。

 

○「生理学・病理学実験研究所」

ナチス・ドイツに「アーネンエルベ」とは別で存在した遺伝学の研究機関で、当時世界的に有名だった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の指導のもとに発足した。

ここの所長のオトマール・フォン・フェアシュアー博士は、ヨーロッパでも一流の遺伝学者であったが、ヒトラーの熱烈な信者でもあり、「わがドイツの他に抜きんでた統率力、これまで築き上げてきた国力は、人種や遺伝に関する理念の重要性を十分に自覚しているからこそ達成できたのだ」と遺伝学の重要性を力説していた。

○自分の意見

優生学に基づいた断種について、神の領域を侵しているという意見がある。しかし、私はそうは考えない。私は「神の領域とはなにか」と問われても、それに答えることが出来ない。それはつまり、私の中で神の領域というものは明確に定義されていないため、存在しないと考えることができる。だから、神の領域を侵しているという考え方には同意しかねる。

だからといって、これに賛成できるというわけでもない。

私は、生物というものは他者から手を加えられずとも優生な者は生き残り、悪性な者は絶えるというように出来ていると考えている。だから、断種は私にしてみればする必要のない無駄な行為なのである。

しかし、ナチス・ドイツのような「○○人種こそ至高の人種である」という考え方は、完全に否定することはできない。

例えば、オリンピックのような世界大会の短距離走ではほとんどの場合黒人が金メダルを取る。このときよく耳にする「黒人は持っているバネが違うから」というのも、言い換えれば「短距離走において黒人は至高の人種である。」と言っているのである。

このように、「断種がどうだ」「優生学がどうだ」と躍起になって言っている現代でも、その考え方は我々に染み付いているのだ。

 

○参考文献

ナチス・ドイツの「優生政策」の実態

・歴史から学ぶハンセン病とは?

ハンセン病に関する主な出来事

・「ハンセン病問題」と優生思想・優生政策の推移

・再発とプロミン治療

(すべてインターネットより)