春休みの課題  ハンセン病を生きて ―きみたちに伝えたいこと ― 伊波敏男 著 (岩波ジュニア新書) を読んで  (6)

ハンセン病』らい病と言われていたこの病気を今回初めて知った。問題は解決する又は繰り返さないために知っておく必要がある。何故知らなかったのだろうか。世の中で騒ぎにならなかったからだろうか、それとも私に関心が無かっただけだろうか。ともかく、ハンセン病に関わっていく機会を与えてくれる先生に感謝したい。
この本を読んで一番考えることになっているのは、私は社会や世界平和のために行動出来るか、むしろ行動しようと思えるか、だ。第2章で小学生の子が『もし私が長みねさんだったら(中略)「平和」や「幸せ」について考えると思う』と書いていたが、私はどうだろうか。人の幸せについて真剣に考えられたことがあるだろうか。この本を読んだり、講義を聴いたり、環境論に行ったりしてきたが、そこまで何か変わったとは言い難いような気がしている。全く何も変わっていないとは言わない。勿論少しずつでも他の人に触れ、前よりは視野は広がってきているとは思う。だが考えるだけで動くことはない。いや本当は考えることすら出来ていないんだと思う。行動に移さない思考は無駄だ。考えていないのと同じだ。
  この本を読み進める中でもそれは感じられた。私は汚れた人間の方なのだろう。ののしりはしないがこのハンセン病回復者の人たちが未だ苦しむことがちゃんと理解できていない。私は…あ。今、理解に一歩近付けたかもしれない。私は外からの何かで苦しんだことはない、と言おうとしていた。でもあった。自分が理解されないことだ。イジメも虐待も何にもなく平穏に生きている私が苦しいと思うとき、それは自分を受け入れて貰えないときだ。ハンセン病回復者の人たちもこんな気持ちだろうか。いや、もっと上位互換だろう、存在を認めることすらしてもらえなかったのだから。話が少し脱線してしまったので元に戻す。私が汚れていると感じた理由だ。苦しみが理解できないことは解決の糸口を見つけられたが、他にもある。私はハンセン病回復者の人たちやその家族には少しも非が無いのだろうか、と疑ってしまった。勿論政府や他の国民に非がないと言いたい訳ではない、と言いたいところだがそうでもないだろう。最近知ったのだが反省しているときは反論しちゃいけないらしい。それは反省していないことだと。つまりはそういうことだ。ほぼののしるに近いニュアンスでハンセン病について考えてしまっているのだ。伊波さんの表現をお借りするなら、心の解像装置が汚れて「やさしさ」を見失ってしまった、のだろう。
  私がこの本の中で一番感情移入してしまったのは政府だった。「らい予防法」の問題を認識しながら放置した政府。私は身に覚えがあった。これからに希望を込めて過去形にしておくが、私は自分の間違いを認められない人だった。例えば自分がメールを無視したせいで始まった友人とのケンカ。私は自分から謝るべきだとわかっていたが「ごめん。」のたった一言が言い出せなかった。友人が折れて謝ってくれるまで私は謝れなかった。これは中一あたりの話で最近は直そうと思いつつも変わっていない。だから私は上に立つべきでないと思い出したのだが、その話は置いといて。ハンセン病回復者の人たちでも、その家族でも、考える子供たちでもなく、苦しめた政府と共感してしまった自分が悲しいと感じた。つまり、私は現状に満足していない。
  私はどうすれば自分の望む考え方が出来るのだろうか。これまで短くとも生きてきた十八年の経験上、最も人に影響を与えるのは体験、それから生身の人の考えに触れることだと思う。体感するからこそ納得しやすい。百聞は一見にしかずということである。では実際にハンセン病回復者の人に会えば何か変わるだろうか。私も蚊帳の外から中へ入れるだろうか。他を想い、考えることが出来るだろうか。何事もやってみないとわからないから、まずは行動してみようと思う。