長島愛生園 見学感想 3年生(C28)

 長島愛生園へ見学に行かせて頂いて、たくさん新しい知識を得ることができた。愛生園には邑久高校新良田教室があったので、高校での教育の話も聞くことができた。僕は新良田教室に主に着目してきたが、高校ではなく小学校もあったことに驚いた。子どもの患者が通う愛生学園と未感染児童と呼ばれる患者の子どもが通う学校が二つ別れていたことにも驚いた。当時の愛生学園で少年少女舎に泊まっていた子供たちの不安を考えると心が痛くなった。しかしそんな中でも、少年少女舎の世話役の大人が「お父さん」「お母さん」と呼ばれていたのは少し安心した。そういう風に呼べるほど愛情を持って育ててくれていた証拠だと思うし、子供たちの心の拠り所になっていたのだろうと思った。僕が最も知りたかった新良田教室についても新たな知識を得られた。まず、新良田教室の校歌を生徒が作っていたことに感心した。作詞作曲ともに一期生と二期生が行っており、その希望のある歌詞に感動した。新良田教室は昭和30年から昭和62年までの約30年の間に307名もの卒業生を輩出したと書いてあったが、新良田教室閉校時につくられた「希望の碑」には新良田教室で学んだ生徒は397人との表記があり、その90人の差を疑問に思った。そこで田村さんにお尋ねしたところ、やはり新良田教室でも全員が卒業できた訳ではなかったことが分かった。病状の悪化や、事情で元の療養所に戻らなければならなくなったなど、理由は様々あるにせよ90人もの方が卒業を待たずに新良田教室を去ったということだ。やはり普通の学校よりも卒業が厳しいものであったことは事実なので、改めて教育の難しさを知った。病状の悪化で学校から友達が去る時の気持ちを考えると、とても切なくなった。また、自分が患者であるということを常に抱えて学校生活を送るのはとても大変だったのだろうとも思った。新良田教室のコーナーは一階にあったが、二階にも教育に関する展示があった。当時の生徒が書いた作文や手紙などが多く展示されており、同年代の率直かつ切実な想いに心を動かされた。僕は「ハンセン病と教育」を読んだ時に、子ども達に差別の目を向けた教師たちの話を多く知ったが、この展示によって逆もあったことを知ることができた。中には偏見を全く持たない教師もおり、生徒と相撲をとっていたというのだ。厳しい治療をしながらの学校生活においても微笑ましい一面が垣間見えたことがとてもうれしかった。しかし、差別があったという事実から目を背けることはできなかった。子ども達は職員室などに入れてもらえず、用があるときは教師を呼び出すという「ベル制」に反対したことが書かれていた。他の大人に比べて、教師から差別されることは、「教師と生徒」「患者と健康者」という二重の溝を生み出すと気付くことができる展示であった。
 次に施設内の見学を行った。収容所や納骨堂などを見学できた。療養所に来てまず消毒風呂に入れられたことや、療養所内で隔離が徹底されていたことなど、初めから知っていても心が痛むものばかりだった。納骨堂で黙祷の声掛けをした時はとても緊張した。納骨堂が高台にあることで、眠っておられる元患者さんたちが今の愛生園全体を見守っているような気がした。最後に、元患者さんのお話を直接聴くことができた。その後に新良田教室について質問させてもらった。新良田教室に来る生徒を乗せた列車を出迎えたことがとても印象に残っているとのことだった。確かに新良田教室はそこで学ぶ生徒に大きな影響を与えたが、その生徒たちを迎える愛生園の人々にも変化をもたらしたのだなと分かった。
 この研修ではハンセン病に関する差別が残した深い爪痕をより現実的に感じるとともに、今を生きる元患者さんの明るい姿や前向きさを学ぶものとなった。暗い過去を忘れることはできないし、僕たちが伝えていかなくてはならないものである。今が一番幸せであると笑う顔を見たときに、その使命感をより強く感じた。