長島愛生園 見学感想 3年生(B1)

 長島に行くには、邑久長島大橋を渡ります。昭和63年に造られた人間復活の橋と呼ばれた小さな橋です。私が長島に行った時、バスで橋を通過したことにも気づかなかったほど短く小さな橋でした。でもその数十メートルの橋をつくるのに17年間も闘い続けた人達がいることを学び、帰りにはその橋が大きく見えました。

 まず私たちは歴史観を見学させていただきました。そこで一番印象に残っているのが、二階に展示されていた当時ハンセン病と闘っていた学生の作文や詩です。私達と同じ年頃の子達が率直に気持ちを綴っていて、いかに辛い経験をしてきたかがひしひしと伝わってきました。とくにお母さんへの恋しさを詠んでいるものが多く、子供が親から離れることはどんなに辛かったのか、想像もできません。
 また元患者さんが1人で四年かけて長島愛生園の全体模型を作ったという話にびっくりしました。ハンセン病は神経にも症状が出る病気なので、手もそんな器用に使えないはずなのにその手で模型作りという細かい作業をしたということに驚きました。また、愛生園の大きさが、東京ドーム51個分だと聞いてびっくりしました。でもたしかに数千人の人々が暮らしていたのだと考えると、療養所というよりも一つの町のようなものなのだろうと思います。また、患者と患者でない人の住まいや活動場所がとてもくっきり線引きして分けられていることも初めて知りました。

 その後、私達は学芸員の田村さんに施設案内をしていただきました。歴史館を出てすぐ正面に見える島に、長島神社があり、またそこでは光明皇后が祀られているそうです。邑久光明園は、昔、光明皇后が試薬院を建てハンセン病患者を含む多くの病人を保護したことからその名をとって名付けられと後に調べて知りました。
回春寮と呼ばれた収容所は、東京の資料館で観たアニメの、少年が最初に連れてこられ服を脱がされ消毒されたあの場所とほぼ見た目が同じだったので、どこの療養所も同じような作りだったのかなと思いました。
官房は埋め立てられてはいるものの、残された壁でその物々しさを感じました。冷たい3メートルの壁で囲まれた巨大な官房を想像すると恐ろしいばかりです。
目が不自由な入居者さん達のため、今も曲がり角に設置されたラジオが流れていて、そこに今も生活している方々がいることに実感がわき、ハンセン病の問題はまだまだ歴史ではないのだと思いました。
納骨堂の前で献花し黙祷したときは、この中には愛生園で亡くなられた3000人以上の方々が今も眠っているのだと考えると、すこし鳥肌が立ちました。

 中尾さんという元患者さんにお会いし、初めて元患者さんにお話を伺うこともできました。事前学習のおかげで知っていることも多かったですが、やはり当事者の口から聞くと、リアルで重みがあり、紙の上でしか知らなかった事実が現実味を帯びました。ハンセン病でない子供まで、身内にハンセン病患者がいるだけで、堕胎手術をさせられていたことは知らなかったので本当に驚きました。惨すぎる…
お話の中でも、子供が好きと仰っていて、やはり子供を持てなかったことは特に辛いことだったのだと改めて思いました。
 質問がパッと出てこず、今の生活はどうかという分かりにくい質問してしまったけど、今は天国みたいと話す中尾さんは幸せそうでこちらまで嬉しくなりました。
また、今も差別があることに少し驚きました。ほんの少し前までそんな病気があることも知らなかった私も含め、無知は罪だと心から思いす。
「このようなことがあったという事実を、伝えていきたい。」という中尾さんの想いを、次の世代の私たちが伝えていかなければならないのだと、使命感を感じました。