「ハンセン病を生きて―きみたちに伝えたいこと」感想文(B26)

多くの人間は生きている限り必ず差別を受ける。そして、必ず差別をする。恐ろしいのは、差別をしていることに気が付かないことだ。これが、本書を読んでまず考えたことだ。
本書を読み終えて、この本に垣間見える差別の心に驚いた。著者に向けてのものではない。著者自身のものである。本質とは離れるが、例として感じたことを挙げてみる。
まず、著者が「大人」を批判し「子供」を手放しに誉めているのは年齢の差別である。大人と子供の端境期にある私たちの中で、何度も繰り返されるこの言説にもやもやした人もいるのではないだろうか。また、元妻が終始敬語なのはどういうことなのだろうか。本書を読む限りではこの夫婦は共働きであったようだ。年齢の差という点を鑑みたうえでも、家族として対等な関係を結んでいるはずの二人のうち、女性のみが敬語というのは不自然である。ハンセン病に関する差別は積極的になくそうとしていた著者だが、妻に敬語を強いていたのか。もしくは敬語を使って当然という文化を容認していたのか。
著者は「不安と肉体的苦痛や社会的挫折が、どのようなものであるかを、自分の身に経験した人々は、痛みや苦しみ、そして、悲しみを知る者」といい、(私はこれだってある種の差別であると感じましたが)自らもその一人だと語る。そんな著者でさえ、このような意識が表れるのである。差別に対して敏感でない私は何人の人を傷つけてきたのだろうと考えると身の震える思いがした。友達や親と話していて、自分や相手がふと見せる、偏見や差別に毒された意見に驚いたことはあるだろうか。私はしばしばある。そのたびに驚き、怖くなってしまう。自分のなかにある差別の心に気付くこと、そしてそれと向き合うことが、差別や偏見の是正について個人としてできるまず初めの行動なのではないだろうか。
差別は理屈ではなく、感情から生まれるものであると思う。宿泊拒否事件からもそれはわかる。宿泊拒否事件が起きたのは2003年のことだ。その2年前にハンセン病の患者たちは国を相手に勝訴している。当時マスコミは大々的にそれを報道したという。当然、隔離政策の悪点の一つとして、ハンセン病は隔離する必要のない病気であるということも報道されていたはずだ。理屈で言えば感染力のないハンセン病元患者を泊めることは何の問題もない、ということは周知のはずだ。にもかかわらず、ホテルはハンセン病元患者の宿泊を拒否し、元患者のもとにはひどい手紙がたくさん送られた。この人たちがハンセン病に関して全くの無知だったとは、手紙の内容からもどうしても思えない。彼らはよく知り、よく理解し、そのうえで論理を故意に曲げて醜い感情をぶつけている。今まで差別や偏見は無知から生まれるものだと思っていた。無知により、思考や論理が曲がってしまうのだと。それは本書でも主張されている。しかし、どうやら差別には理屈や知識や論理的思考などというものは関係ないという考えをこれらの手紙を読むことによって得た。いや、「十分でない知識」のみ与えられて「真理」を知らない状態であるから、やはり差別は無知からくるものなのか。しかし自分に置き換えて考えてほしいが、「真理」を知ったからといって、差別の心は本当になくなるか?本当にどうしようもなく不適切ではあるが、対象を野菜か何かで考えてみてほしい。栄養があるからと言ってピーマンを食べるか?(食べる)理屈ではない差別や偏見の心をどうやって制御するべきなのか。それは制御できるものなのか。制御できなかったとき、どうしたらいいのだろうか。私は、考えることは制御できなくても、行動することは制御するべきだと思う。それは義務だ。もちろん手紙を送った彼らもそんなことはわかっていて、だから匿名を選んだのだろうが。行動を制御できないほどに追い詰められたのだろう。彼らも救われなければならない。
差別は無知のみからくるものではないと思う。しかし、隔離政策は無知と無関心によって長引いた。国とは、個人のどうにもならない部分を法律や制度によってあるべき姿にするものではないのか。そして個人は、国の法律や制度がそのように働いているかきちんと監視するべきではないのか。何十年もの間、そのような仕組みが機能していなかったというのには正直絶望を感じた。是正されて本当に良かったと思う。その為に活動なさった伊波さんたちには本当に感謝と尊敬の気持ちしかない。もうすぐ有権者になる者として、この本を読んで感じた様々な人としての義務を果たしていきたい。