「ハンセン病を生きてー君たちに伝えたいこと」感想文(3A06)

 この本は、ハンセン病だけの問題ではなく、この社会全体の根本的な問題について書かれているものだった。…本を読む前の僕なら、こっとこの作文課題はこの類の文から始めたであろう。僕の評論文に対する感想文の書き方はたいていいつも同じで、まず逆接の文でおっ、と思わせて、問題点を簡潔に紹介し、そこに何かしらのアプローチを加えることによって(多くの場合、それは一般化である)、その問題を客観視し、冷静に意見を述べ、冒頭の文にオチをつける。いや、その書き方も悪くないと思うのだが、ことこの本に関してはそのような姿勢で書くことが出来ない。その超越的な姿勢で差別を論じること自体が、差別のもとだとようやく分かったからだ。つまり、一言も自分について省みることなく、他人事として差別を論じる姿勢は、差別の責任一切から逃れようとする姿勢に他ならない。故に、この文ではできるだけ積極的に、率直に自らの認識に触れていきたいと思う。
 さて、この本の中で僕がいちばん衝撃を受けたのは、熊本県であった宿泊拒否事件である。この事件は、もとハンセン病患者の団体が、熊本県の宿泊施設を利用しようとしたとき、ホテル側に拒否された事件であるが、特に、その中で、世間―――という言い方は適切ではないようにも感じるが―――の人々から被害者に宛てられた手紙の件が衝撃であった。なぜか。自分はこの手紙のうち一文、更にその一部だけであるにしても、理が通っていると感じた部分があるからである。
 その文というのは、端的に言うと、『ホテル側の謝罪を拒否したのはおかしい』という主張であった。宿泊を拒絶したホテル側が謝罪に来たのを、患者の自治団体が拒否したという話に対する批判の手紙である。―――さて、ここで誤解を恐れずに、冒頭で僕が拒絶したとした『一般化』を用いてみよう。―――「あなたは、過去の誤った行いを謝罪されたとき、どのような態度をとるのがいいであろうか?」―――多くの場合、というか僕の選択肢には、拒絶することは無かった。この点、僕は少し違和感を感じた。
 だが、答えは少し考えたら分かる話だ。
 人権とはそんなに軽いものではない、ということであろう。いや、確かに僕は人権が尊いものなのは知っている。確かに僕は人権とは侵してはならない重んじられなければならない権利なのは知っている。自然権の一部で、日本国憲法に規定された権利で、侵してはならない権利。
 だが、ではその言葉は実生活の中でどれほどの意味をもっただろうか?すくなくとも僕の中では、『人権』は文字列の域を出ていなかったのかもしれない。事実この本の内容は、僕の人権への意識は稚拙なものであったと認識させるのに十分であった。
 物事を客観的に見るのは、感情を抜くことである。だが、当然ヒトとヒトは客観的な議論のみではやっていけない。僕らに今求められているのは、人権について抽象的に議論することではなく、人権についてまず行動することではないだろうか。論理的にはやや跳躍しているが、この本から、僕は社会を客観視して議論することだけではなく、ヒトの集合としての社会に主体的にかかわっていく大切さを教えてもらった気がする。そして、いつのまにかそういった感情回路を失っていた自分に、薄ら寒い思いがした。