第10回 ラット解剖 A29

 私の頭の中には、ラットの生きた姿と、腹を開けられた姿の2つが渦巻いている。

 生きているときには、相手のメスを追い回したり、脱走しようとしたりと元気いっぱいであった。飼育しているときには、「あのラットはメスを傷つけていないだろうか,,,」とよく話題に上がったほどだった。解剖前にジエチルエーテルが満たされた容器に入れる際にも暴れ、私の手から逃げ出し床を駆け回った。ラットを掴みいれる際には、声をあげて嫌がった。このときには、ラットは解剖されることを知っていたのではを今では思う。
 元気なラットの身体にジエチルエーテルが染み渡ってくると、ラットは次第にぐったりしていき、2分もしないうちにはラットから力が抜けていった。グダーンとした身体を解剖台におき、はさみを入れたとき、私の目から涙が出なかった。河合洋一先生が、お手本をみせて下さった時には涙が出た。しかし、いざ自分が解剖してみると頭の中にあることは、「かわいそう」という言葉よりも「綺麗に解剖しよう」という言葉だった。
 わたしはできるだけ綺麗に、腹膜を開き、内臓を一つ一つ取り出し並べていった。一つ一つ臓器を確認全て取り出したあとのラットをみると、おなかの中には何もない。そこには、生きた面影はなく、ただの肉の塊となってしまった無残な姿が見えていた。最後に、おなかに戻したが、もちろん動き出すことは無かった。命のともし火が消えた生き物は再び動くことはない。命は再び戻ることは無い。

 わたしは、身体の中の構造のことに昔から興味があった。どんな風になっているのか本を読み込んだりして、臓器の特徴や場所がわかっていた。が、やはり実際見てみないと分からないことが多かった。今回は、その疑問点を一掃していった。ラットの解剖は私の長年の疑問を解決した。解剖をするということは、人の病気や、薬の効力を確かめるものであることを、私のスケールの小さい解決から実感できたと思う。
 また、改めて分かったことは、「体の精密な造り」と「命の神秘性」であった。実際にラットの身体を解剖して見てみたとき、内臓の収まり具合、筋肉のつきかた、血管の繊細さなどがよくわかる。体は、よくできた機械だということもある。進化の過程で、現在の体を作り上げてきたと考えると驚きである。また、命が実際に手に触れたり、見たりはできないが、たしかに目の前で消えていった。この不確実な存在について、神秘的であると思った。
 
 今でも頭で駆け回っているラットに、わたしは「ありがとう」といいたい。