長島愛生園研修7/17 3A14

進路に悩むナーバスな高校生にとって、生死の問題は深い沼である。何のために生きるのか、というテーマは誰もが布団の中で考えたことだろう。私の最近の悩みは、なぜ死にたくないと思うのか。今の私は、死にたくない理由がない。死にたくなくないのである。
生への執着はどこからくるのだろう。自己実現のためとか、社会の役に立つためとか、家族を養うためとか、そういったわかりやすい言い切りでの表現は可能なのか。確かに、私が死んだら悲しんでくれる家族や友人はいるだろうが、それは生きる理由にはなっていない。少し補足しておくと、私が思うのは単に、どうせ死ぬなら生きている意味がない、だから生への執着がない、ということではない。また、死にたくなくないだけで、死にたいわけでもないので、自殺したいというわけでもない。あるいは、死ぬのが怖いということでもない気がする。
私は言われたことはないが、よく、君は社会に(世界に)有用な人間だ、というセリフを思い出す。社会に有用という言い方は、ある意味わかりやすい。いかに社会のシステムの潤滑油となるか、あるいは、いかに貧困を解決するか議論する機会は、学生にも多い。ただ、今の私にとって、そんなことはどうでもいい。社会に貢献して、なんになるのか。お金を稼いでどうなるのか。後世に名を残して、なんになるというのか。
実は、先日長島愛生園に見学に行った。愛生園はかつてハンセン病の隔離施設であり、今では人権学習の場にもなっている。
一昔前、ガンの宣告がためらわれたように、まだ特効薬プロミンが出る前、ハンセン病の診断はすなわち死を表したらしい。ここでいう死とは、肉体的なものだけでなく、精神的・社会的な死である。ハンセン病は、不治の病とされていただけでなく、差別や偏見・強制隔離の対象であった。隔離施設に入ったら、有無を言わせずそこを終の住処とさせられた。
今回の見学ではまた、元患者の語り部の話を聴かせていただく機会があった。そこで園内での自殺についての話があった。自殺を試みるきっかけとなったのは、視力を失うことだったらしい。ハンセン病の症状である知覚麻痺に加え、視力も失ってしまうことは、想像できないほどの不安を招いただろう。自殺する人の心理はよくわからないが、おそらく大きくは(完全に分離はできないが)2通りあって、一つは逃避のため、もう一つは絶望のために自殺するのではないか。よくニュースで見るイジメでの自殺など、前者がほとんどかもしれない。ハンセン病患者の自殺はどちら定かではないが、それまではなんとか生きていた人が失明をきっかけに自殺するところから、私は生きることへの絶望のためではないかと思う。
ところで、私は死にたくなくないと言ったし、生きる希望もない。ある意味生きることに絶望していると言えるのではないか。いや、希望を持っていないだけで、絶望はしていない。私が達観したように話すのに対し、ハンセン病患者たちはそんな余裕もなく、辛い経験をしていたに違いない。彼らに比べて私には生きることに余裕がありすぎる。
浅はかな自分は、杞憂をしているように思えてくる。
多くの患者たちは、過酷な療養所生活で各々生きる希望を見つけ、暮らしていたという。野球やゲートボール、ハーモニカバンドなど、内容は多岐にわたる。
ここから学んだ結論がある。
今楽しいことをすればいいんじゃね。