愛生園見学 3A06


  癩は天刑である。

 雷に打たれたようだった。明石海人の詩集『白猫』冒頭のその言葉は、僕の愛生園での学びのすべてであった。

 というのは、この文を読むまで、僕はハンセン病療養所をいささか誤解していたのである。これは多分、以前受けた講義、または本から得た知識の影響であろうが、ハンセン病とは、僕にとって、人権侵害の悲劇であった。多くの患者さんが、差別され、その生涯を過ごすことを余儀なくされた悲劇である。それは確かに、ハンセン病史の一部分なのだろう。だが、愛生園で、あの資料館のなかで、僕は別のハンセン病史を知った。それは、「深海に生きる魚族が、自ら燃えて光りを探」した、人間史である。

 長島愛生園をはじめとするハンセン病療養施設の特色は、多くが患者自身が創ってきた点が特色であるという。療養所は、特に戦後すぐなどは、世間と隔別されたがゆえに、自給自足で暮らす共同体であったようだった。世間に対して引け目を感じたり、未来への不安に悩ませたり、住環境がとても悪かったり。それが外の世界と異なる、療養所という共同体の悲劇でもあったのは、冒頭僕が述べた通りである。その面は、療養所内の学生の詩文・作文、」高校のロングホームルーム資料によく表れていた。そこには、故郷を思う子、母を思う子、不安に苛まれる子、等様々な文が、また、自分たちが社会でどう生きていくべきか、について書かれた真剣な討議資料があった。そして、今僕たちが主に触れるハンセン病の姿である。
 だが、その国策の誤りゆえに、我々はハンセン病患者を“被害者”とみなしてはいなかったか。確かに実際は被害者かもしれない。だが、だからと言って療養所での生活を“かわいそう”とみなしてはいなかったか。確かに誤った政策に翻弄されたのはかわいそうかもしれない。だが、そうやって療養所での生活を無下に否定することは、ハンセン病患者の人生を無下に否定することなのであった。ハンセン病患者の多くは、与えられた条件を受け入れて、懸命に生きたのである。文化活動然り、社会運動然り。何かの生きがいをもって、生きることに価値を見出し、人間として立派に生きられたのだ。それは、僕が知る限り、最も崇高で、最も誇り高い、最も人間的な人間の姿であるように感じる。海人はこうも記している。

  人の世を脱(のが)れて人の世を知り、
  骨肉と離れて愛を信じ、
  明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。

  癩はまた天啓でもあった。


僕はハンセン病史から、少し人間というものについて学べた気がする。ハンセン病は、僕にとって師であった。