ラットの解剖 3A32

ラットの解剖、といっても、涙で視界はぼやけるし、こわくて手は震えるしで、結局私はほとんど何もできませんでした。

その理由はきっと、"死"を見たからではなく、"生"に触れたからだと思います。

普段生活していて"死"を意識することってけっこうあると私は思っています。車に轢かれそうになった時、怪我をして血を見た時、あとは誰かが死んだニュースを見たり、お葬式に参列したりした時、等々。でも、"生"をまざまざと感じることってあまりないような気がします。「死ぬかと思った~!」はあっても、「生きてるんやって思った~!」はなくないですか?多分それは、生きていることが前提で当たり前であえて普段再確認しないことだからかな、と。ただ、私には昔から"生"や"命"を強烈に感じさせるあることがあります、それは犬や猫などの動物を撫でることです。私は犬や猫をだっこしたり、とにかく触れ合うのが本当に苦手です、こわいから。噛み付かれたり引っ掻かれたりする恐怖ではなく、毛の上から触って感じる体温とか筋肉の動きとかそういう生々しいやつ、特に犬のおなかなんかは本当に。あの微妙な温かさと皮膚のすぐ内にあるであろう内臓の存在を感じさせるでこぼこゴツゴツしたあの感じ。それに触れるだけで、私は一瞬にして命の脆さ儚さ不思議さ神秘とか、そういったものを感じ取ってしまいます。それと同じ現象に、ラットのお腹に触れたとき、陥りました、「ああ、こいつ生きてる」って、そして何も出来ませんでした。

"生"を感じることで無意識に"死"を意識している、こう言い換えれば同じことかもしれませんが、私はこれらを感覚的に違うものとして扱いたい。だから、私は"生"を感じることを、"死"を感じることよりもよっぽどこわく思います。
そこで、人は、"死"よりももっと"生"を感じ、意識することによって命をより大切にできるんじゃないでしょうか。もっとたくさんの人に、それぞれの方法で、一度"生"を強烈に感受してもらいたいです。