愛生園 3B08

岡山にある愛生園に行った。資料館では、事前に調べていったことの話を聞いた。初めて知ったことは、愛生園のある長島に本州から行くために橋を渡るのだが、その橋をかけるのにとても苦労したということだ。この橋は、30メートルほどで小さい橋だか、元ハンセン病患者さん達にとっては、新しい1歩を踏み出せることのきっかけとなる大きなものだった。また、資料館には、法改正がなされてから、元ハンセン病患者さん達がホテルの宿泊を拒否された事件のことも書かれていた。そこには、誹謗中傷の文章が書かれたハガキだけが展示されていた。本を読んだときにも思ったが、なぜそう言うハガキだけを展示するのかと疑問に思う。励ましのハガキも中にはあったと思うのに、誹謗中傷だけされたように感じる。励ましのハガキも少しはありましたが、誹謗中傷が多かったですみたいな感じで展示したらいいのになと感じた。資料館の2階には、元ハンセン病患者さんの作文などがあった。そこの短歌には、花の名前は忘れてしまったが、来シーズンの花が咲いたら、母は面会に来るっていったのに、とっくにその花は、かれてしまって、次のシーズンの花が咲いているというような内容だった。古文の話でもそう言う話聞いたことがあったので、次いつ会えるかを花の咲く季節で昔から人を待たせるのだと思った。元ハンセン病患者さんのお話を初めて直接聞いた。病院に行ったときの待遇から、今の話まで話してくださった。少しハンセン病の2次影響で手が不自由そうだったが、自分でペットボトルのフタを開けたり、話をテキパキとしていたりしていた。愛生園を設立した初代園長は良い人だったと思うかどうかの質問について、初めの方に来た患者さん達にとっては、優れた人であったが、そうでない人にとっては、よく思わない人であったと答えていらっしゃった。ハンセン病患者さん達のためを思って、園を開設してくれた人だったので、古参の人にはよく思われていた。初代園長は、ハンセン病が治ると分かったときには65歳を超えていて、法整備でハンセン病患者さんや、既に治っている人に対して不都合な法律をつくってしまった。時代の流れに沿って、人は行動し、良いタイミングをみつけて身を引くべきだったんだなと思った。愛生園の施設見学では、ハンセン病になった人が渡る桟橋を見た。旅行だと言って連れてこられた人や、今までは母屋などに隠れていて、久しぶりに外へ出て来て良かったと思う人がいた。ここまで、家族と来て、そこから別れるのは辛かっただろうと思う人もいれば、今まで隠れて生き続けていたところを抜け出せたのを喜ぶ人もいたんだと感じた。桟橋から来た人は、身体検査や消毒をするために、海からすぐの建物に入れられる。そこでは、全裸にならされ、異様な匂いがする消毒液につかる。ハンセン病だと言われずに連れて来られた人々は、状況が飲み込めず、いきなり汚いもの扱いされ、非常に驚いたことだと思う。次に、外壁しかなかったが、島から逃げ出そうとした人などを処罰する監獄を見学した。夏は暑く、冬は寒いのでここで死ぬ人もいたそうだ。裁判など行われず、独断でこういった場所に入れられる。家族に会えず死ぬのは辛かっただろうなと思う。納骨堂は、平成になってから建て替えられたため、立派な建物であった。病院に納骨堂があるのは、ハンセン病患者であった人の遺体を引き取ることを家族が拒むからである。逃げることも出来ず、家族も面会に来ず、死んでも引き取りに来てくれないのかは悲しかっただろうなと思った。今でも施設に入っている人が亡くなった場合は、子供がいなかったり、既に高齢のため周りの身内も高齢であったりして、遺体をとりに来ない可能性もあると思うが、ハンセン病患者だったことを気にして、とりに来られない人もいるらしい。未だに差別、偏見を気にしているのだなと思った。そう言うことを少しでもこれからの減らして行ければいいなと思う。往復8時間かけた割には、学ぶことが少なかった気がした。東京に行ったときは、もっと多くのことを学べるようにしたい。