ハンセン病     U.S

 私はハンセン病についての感想文を書くにあたって岩波ジュニア新書の「ハンセン病を生きて」と解放出版社の「〈眼差される者〉の近代」を読んだ。まず、これらの本を読んで思ったことは、この本の本質はハンセン病ではなくそれに基づいた差別と、その差別との闘いであることだ。私はその差別との闘いから自ら声を上げ発言することの大切さを見出した。
 二書の目次を見てみると、ハンセン病の差別問題の改善は国へのハンセン病患者の訴訟から始まっている。それまでずっと、もちろん望んでではないとはいえ療養所に入っていただけの受け身の存在から当事者として声をあげる立場へと変わった瞬間である。ハンセン病患者は被差別者で何一つ悪いことをしているわけではない。だがそれでも当事者やその周りの人が声を上げなければ正しい方向には直らなかったのである。ではもし、この時ハンセン病患者らが訴訟をせず押し黙ったまま、それが現在まで続いていたら時が、科学の発展が彼らの無実を証明していただろうか、私は今も差別問題は続いていたであろうと思う。科学的に如何に証明されようがそれを信用せず反対を表明する人は今現在でも垣間見ることができる。それの良い悪いは置いて、そういう人がいることが実際に確認できるのだから時は問題を解決してくれないのである。
私はこのことからいかに客観的に、自らが悪くなかろうと声を上げねば状況はよくならないということを読み取った。
では、ハンセン病当事者ではない私たちにできることは全くないのだろうか。そうではない。私たちはハンセン病の当事者たちへの隔離が正しいのか、考えておく必要があった。当事者でなくとも積極的に彼らへ歩み寄っていればこのようなことは起こらなかったのかもしれない。
当時はハンセン病というのは感染する病気であるとされていたため、治療法がないなら隔離しておくというのは間違ったことには見えないというのも一理あるように思う。ただ、思考をそこで止めることが間違いであった。本当に隔離は正しいのか、と皆考えたうえで事を進めていればこうはならなかったのではないかと思わざるを得ない。確かに隔離政策が始まったころは科学も未発達で皆考えた挙句結論を出したのかもしれない。ただそれが百年続いたということが問題なのだと感じた。
この問題をハンセン病患者を隔離した上差別したことが問題だ、と何の考えもなしに決めつけてしまっては同じようなことがまた繰り返されてしまうと思う。常に私たちはさまざまなことを考え、今置かれている状況でさえ疑っていかなければならない。そして間違っていればすぐさま変えなければならない。
これからハンセン病患者差別の問題のようなことを起こさないために、私たち一人ひとりがどのような立場でさえしなければならないことがある。もし私たちが被差別の側に立った場合、自らのことを説明し、理解してもらえるように声を上げなければならない。もしそちら側ではない場合、私たちは常にその問題への対応が正しいのかを確認し続けなければならない。
どのような場合であろうと、正しく問題を考える上で情報や知識といったことは大切だ。だがなにより、当事者とのコミュニケーションはさけては通れないだろう。そうすれば差別というものは自然と無くなるのだと思う。裏を返していえば、コミュニケーションを拒否して短絡的に差別へと走るような行為は、これから先絶対に繰り返してはならないと思う。