活動報告(4/18)B14

 今日の授業では、「生命操作」について書かれた資料を読んで、グループに分かれて議論を行いました。生殖と出生にかかわる生命操作技術の研究開発が進み、すでに行われている生殖補助医療技術や診断・検査技術とほぼ同等の安全性と有効性が確認される事態を想定して、「着床前診断と胚選別」「クローン・ベビー」「ドナー・ベビー」を取り上げました。
 「着床前診断と胚選別」では、私は最初、想定を読んだだけでは賛成か反対かは明確に決められなかったが、意見を読んでいくうちに、子の利益とは子が決めるものだ、と考えるようになり、意見は反対に傾きました。でも、それは私がまだ「親」ではなく「子」の立場にあるからそう思ったのかもしれないくて、「親」になったときは賛成になるかもしれないと思いました。
 「クローン・ベビー」で、想定だけを読んで話題になったのは、「クローン」が私たちが思っている意味では使われていないということです。亡くなった恋人のクローンとして子どもを作るわけではないのだし、反対する理由がない、というのが班の大体の意見でした。しかし、意見を読んで、優秀な科学者や政治家、亡くなった我が子のクローンを作る、という意見があり、人格というものは遺伝子だけで決まるものではないし、クローン・ベビーはオリジナルと確実に比べられるので、少しの違いでもとがめられるのはかわいそう、という意見になりました。
 「ドナー・ベビー」について、まず、言葉は悪いけど、道具として生まれた「ドナー・ベビー」は上の子と同様に愛情か注がれるのか、そして、命を救うためだけに命を作っていいのか、と疑問に思った。また。議論では、現代文で読んだ「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ著)と比較して、生まれてきた子にいつ積まれてきた理由を伝えるのか、が議題になった。幼いころから言い続けるのか、言わないのか、どちらがいいのか。「わたしを離さないで」では登場人物は自然に受け入れていたが実際はどうなるのだろう。私は両親から思われていたら大丈夫だと思いました。
 全体を通して、「生まれて来てくれてありがとう」の意識が下がっていると思いました。将来、「どんな子を生むか」ということが商品化されていったとしたら、顔・性別だけにかかわらず賢さ・病気のかかりにくさなどがすべてランク付けされて、子どもが作られます。そうなると格差が広がるし、科学技術に頼りすぎて人間自身の力が下がるように思えました。技術が進歩するのはいいことだけど、進歩しすぎるのも問題が多い、と感じました。