活動報告(4/18) C34

「いのちへの人間の干渉」に関して考えました。「体外受精をおこない、いくつかの胚の中から障害を持つ可能性のない胚を選んで母体にもどす」という着床前遺伝子診断と胚選別の想定から話し合いがスタートしました。

この問題に対しての私の意見は、
「自然の摂理からは離れることになってしまい違和感を感じるかもしれないけれど、これまでも人間は進化をして自然の摂理から離れてきている。だから、両親が障害を持つ子を育てていけない又は育児放棄してしまうかもしれない、などの可能性があることを考えると、こういった選択の自由があっても問題がないのではないか。」というものでした。
また、わたしたちの班の4人のうち3人は私と同様の意見で、1人だけ「胚の段階であろうと自然の摂理に逆らって命の選択をおこなうことはよくない」という意見を持つ人がいました。

が、ここから
「能力の高い子供になるように遺伝子を操作する(ビジネスとして展開)」というデザイナー・ベビーの想定、
「亡くなった婚約者のことをあきらめられず彼の体細胞からクローンの子をつくり育てる(ビジネスとして展開)」というクローン・ベビーの想定、
「病気の一人娘を助けるために、その娘を助けられる細胞をもつ胚を選んで2人目の子供を産む」
というドナー・ベビーの想定

について考えていくうちに、私の考えは大きく変化し、はじめの想定の時にただ1人反対していた子の「自然の摂理に逆らうべきではない」と同じ意見にいきつきました。
なぜそう思うようになったのか、正直よく分かりません。ただ、「クローンベビー」の想定について考えて話し合ったあたりから、私は自然の摂理から遠ざかることに得体の知れない恐怖を感じるようになりました。たとえ自然でなくても人間の悩みが減るのならいいのではないかと考えていたはずが、人間の悩みなんてどうでもいいから自然に従うべきだと強く思うようになったんです。
私達は戦争の時代の反省をし、まだある戦争に関する問題について考えながら生きています。たぶん私は、次にしなければならなくなる大きな反省は、こういった命の選択・干渉、命の商品化・ビジネス化によるものかもしれないと不安になっているのだと思います。

今現在、日本ではお金を払えば出生前診断をうけて障害をもつ子を「堕ろす」という決断をすることができます。私はそのことはそんなに悪い事だとは思いません。みんな、形のできてきた小さな命を「殺す」ことは沢山悩んで考えて選択するはずです。ここでの選択は「生かすか、殺すか」。しかしはじめの想定では「胚の段階」で「障害のある子、障害のない子」どちらを産むか選択できます。この場合、深く悩む人は少ないように思います。胚の段階ではまだ命として重く考えられず、選べるものならみんな「障害のない子」を軽い気持ちで選んでしまうと思うんです。
私は、こうして軽い気持ちで「障害のある子、ない子」の選択をしはじめた人間達がそれで満足できるとは思えません。「なにか優れた能力をもつ子、普通の子」「見た目のよい子、そうでもない子」胚の選択とかのレベルではなく、遺伝子をいじったりしてどんどん自然の摂理からはずれていくでしょう。国が管理しているのならまだなんとかなりそうですが、命への干渉がビジネスになったりなりかけたりしています。ビジネスになるとよけいに歯止めがきかなくなりそうです。それが当たり前になった時世の中はどうなるんでしょうか。想像ができません。想像できないことはとっても危険で怖いことです。それが良いことなのか悪いことなのか、取り返しがつかなくなる前に1度立ち止まってよく考える必要があるはずです。


ここで初めの想定に関してもう一度話させてください。初めの想定でただ1人反対していた人は、「障害のない子を選択していくことは今現在障害を持っている人への差別意識を強くする。障害のない子が減っていくと、障害のある人が今よりも特異な存在として扱われてしまう。だから障害のない子を産む研究ではなく、障害に対して理解のある世の中にする仕組みを考える研究に力をいれていくべきだ」という意見ももっていました。
わたしもこれに関してはその通りだなと思います。しかし、その仕組みを考えている間、仕組みが整いみんなの意識が変わるまでの間、悩み続ける人もいます。たとえば重い障害のある子を持つ親はいつまでも生きていられません。障害のある子はその後どうやって生きていくのでしょうか。綺麗事ではやっていけないことも事実です。自然の摂理から離れるのはこわいあぶないなんて言っていられない人も少なくないでしょう。
また、「今障害をもっているひとの気持ちを考えるとよくないかもしれないけれど、将来障害のない子だけになることはよいことじゃないか」という意見もありました。わたしはこれに関してもその通りだと思います。しかし、今障害をもっているひとの気持ちを無視していいわけではありません。「この人たちのこと無視したらこの想定すごくいいよね」ではだめなはずです。
いろんな人がいる世の中で、今私たちがやるべきこと、やれることを考えていかなければならないと私は思います。

今日は班のメンバーをいれかえながら議論をくりかえしたのですが、なかにはやっぱり「どの想定についても、人間にとってよいことだからいいと思う」という意見の人がいました。それが絶対に間違っているとは思わないし、私は「これこれこうだからそれは絶対にだめだ」ときっぱり反論できません。
何が言いたかったのかよく分からなくなってきましたが、とにかく私は、「今の段階で充分人間はやっていけるのだからここで自然の摂理から離れることはやめておくべきだ」と思うし、でも初めの想定に関しては「綺麗事いってられないよなぁ」なんて思ってしまうんです。

この問題はとても難しいですが、もっと多くの人がたくさんたくさん考えるべき問題ではないでしょうか。私ももう少し自分なりに考えていきたいと思います。