長島愛生園を訪問して (1.2年生の感想 ①)

 この研修を受ける前までは「ハンセン病」と聞いても、なんかの伝染病だったんだなーという程度にしか思ってませんでした。ですが、事前講義を聞いてハンセン病患者がどのような扱いを受けてきたのか、当時の「人権」の考え方がどんなものであったかなどを学びました。事前講義を聞くまでは特に関心もなかったのですが、講義を聞いて実際に自分の目で見たい、自分の耳で聞きたいと思い参加しました。 
 4時間かけて大阪から長島へ。長島の辺りはとても長閑なところで療養にいいところなのかな……と思いましたが、そう思ったのと同時に、当時の人々は今よりも交通の便が悪かったのにここまで連れてこられたのか……という思いもありました。後でここまで専用列車とトラックを乗り継ぎ、船でやってきたと聞いて当時の扱いのひどさに驚きました。ただ、当時はこれが普通の対応であったと思うとこのような扱いは悪かったのかはわかりません。学芸員さんの説明の後、歴史館の見学がありました。歴史館に展示されていたもので特に心打たれたのは、父親を療養所に連れていかれてしまった家族が療養所の園長に一度だけでいいから会わせてほしいと嘆願していた手紙です。当時の地方であったため、かなり拙い字で書かれていましたが訳文を見て、本人やその家族の意思とは違う形で「療養・治療」という名のもと連れられていた当時の状況を目にしました。 
 その後、敷地内を見学しました。当時の患者専用の桟橋や桟橋から直通したクレゾール消毒室(回春寮)や当時の患者が建立した長島神社、今も園内名のまま遺骨の引き取りがなく眠り続ける納骨堂など当時の様子をそのまま物語るものもあれば、今なお残るハンセン病問題を示すものもありました。 
 敷地内見学の後、当時の入所者の方にお話しを伺いました。当時は「癩病」という言葉を聞かれただけで恐れられたそうで村八分にされていたそうです。また、戦時中であったこともあり国民皆がピリピリとしてたこと・隣組による統制があったためすぐに広まってしまったそうです。戦時中は食糧不足でハンセン病患者が苦労したということは聞いてましたが、こういった形で戦争が患者を苦しめていたことを知り驚きました。その男性は19歳で宣告を受けたそうです。療養所への「転院」を勧められ入所したころは治れば帰れると思っていたそうですが、当時の軽症者は療養者ではなく作業員も同然に扱われていてなかなか出ることはできず、出たのは戦後しばらく経ってからでした。僕が印象に残った話は2つあります。1つ目は、外部の人と会話した際に子供が9人いることを聞いて驚いたという話です。当時、ハンセン病は遺伝病ともとられ入所者への断種(強制避妊)がされていました。僕は高校生なのであまり大きな態度を持って言えませんが、ただ病気であるというだけで子供を産んで育てるという喜びを奪われたということに怒りを感じました。もう一つは施設を出て外国の療養施設との交流に行くことになり、飛行機に乗ったときに「天国に行ったみたい」と皆が言っていたことです。僕も初めて飛行機に乗ったときはウキウキしましたが、語り部の方が話していたほどではありませんでした。その様子を見て当時の抑圧された環境がよくわかりましたし、当時は精神病患者がかなり増えてきていたということもすこしうなずけました。 
 今回の研修ではハンセン病そのもののことはもちろん、それが社会に与えた影響について自分の目と耳で感じ、自分自身で考えることができました。ただ差別や人権侵害ということが問題なのではなく、僕たち市民がこの問題に関してだんだんと無知・無関心になっていることが今での一番の問題であるということも学びました。これまで教科書の一部に単語だけ出てきていた「ハンセン病」という言葉にどれだけの重さがあるのかよくわかりました。

ハンセン病についていろいろ教えていただき、ありがとうございました。
私が一番印象に残っているのは、収容所や牢獄は整備がされていなくて、汚らしい感じになっていたことです。修理などをしていないということは、これから先使われることはもうないという証拠なのかなと思って嬉しくなりました。
また、これからハンセン病について伝えていく地点となる場所は綺麗に整備されていて前を向いて進んでいることが分かりました。
正しいハンセン病について伝えてくださり、ありがとうございました。

今回の研修は非常に考えさせられるものでした。ハンセン病のことを初めて知ったのは、事前講習会でお話を聴いた時でした。名前自体は耳にした事がありましたが、想像していた物とは大きく違いました。むしろ、感染病で人を苦しめた。というたったそれだけの事しかわかっていませんでした。実際に長島へ行き、様々な歴史や、患者さん達が周りから受けてきた偏見や差別の実態を知り、様々なことを考える機会が出来ました。ハンセン病の患者であるという事が近所にふれてしまうと家族全員が差別の対象になってしまった。という事実はその当時の人々の間違った認識がもたらしてしまっていたという事を知りました。これは今の時代にも当てはまることで、世界中には差別が溢れかえっていると思います。そのような誤認識と偏見によって他人を傷つけてしまわないように私達は様々な事を知る必要があると感じました。語り部の方のお話を聞かして頂き、本当に強い方だなと感じました。私は語り部の方に憧れを抱きました。私も強く生きていきたいです。今日の話を家族や友人に伝えたいです。今回は貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました。

今回ハンセン病の講習会と研修を通じて感じたことは、自分はハンセン病に対してほとんど無知であったということでした。ハンセン病という病気があることは知っていましたが、どのような理由で感染するのか、社会への影響はどのようなものだったのかなどに目をむけませんでした。
講習会で、ハンセン病についての知識を得ることができたことはとても良い機会でした。
また、愛生園行き実際の施設を見学したり、語り部さんのお話を聞けたことでより深くハンセン病について詳しく知ることができました。
ハンセン病についてもっと深く知り、将来に同じことが繰り返し起きないようにするために過去にあった事実を受け止めていかなくてはいけないと思いました。
今回このような機会をくださりありがとうございました。
神谷さん、貴重なお話をありがとうございました。

ハンセン病について、様々な事を知ることが出来ました。
患者収容桟橋に行った際、学芸員の方が14歳の時に療養所に来た1人の少女のお話をして下さいました。その少女は「旅行に行く」としか言われていなかったそうで、突然の家族との別れに涙したそうです。14歳という年齢にも関わらず、家族と離れて暮らさなければならなかった少女のことを考えると、とても胸が痛みました。
 語り部さんのお話からは、ハンセン病患者の方の苦労がよく分かりました。布団を消毒されたり、家に石を投げられたと聞き、そのような差別は絶対にあってはならないと思いました。また、らい予防法が廃止された時、目の見えない方は飛行機で羽田まで行き、ターミナルを回って帰ってくるという旅行をされたそうですが、それだけで大変喜ばれたと知り、驚きました。
 展示室では神谷美恵子氏について知りましたが、家族の反対を押し切り、患者のサポートをされていた神谷氏をとても思いやりのある優しい人だと思いました。私もそのような人になりたいです。
 今回、参加させていただくまで、私はハンセン病についてほとんど何も知りませんでした。ハンセン病について沢山のことを知ることが出来、良かったです。学芸員の方のお話にもあったように、療養所にいた人は「可哀想な人」ではなく、「強い人」だということを心に留めておきたいと思いました。そして、ハンセン病について知った私達は、二度と同じ過ちを繰り返さないように、行動していかなければならないと感じました。

私は今回の研修で人権擁護の大切さを学べました。
『自分が59歳の時に橋がかかったんだけども、来年が来たらもう定年やから、社会復帰は諦めた。』
その語り部さんの言葉で、私はこういうことは後回しにしてはいけないんだと強く思いました。
 最後に、貴重なお話を聞かせて下さった神谷さん、案内をして下さった田村さん、ありがとうございました。