長島愛生園を訪問して (1.2年生の感想 ②)

・私はこの研修を通して初めてハンセン病を知りました。実際に行ってみるまでは正直に言うと、少し怖いところなのかなと思っていました。けれど、長島愛生園は小さな村のようなところで、私の想像とは全く違っていました。一番印象に残っているのはやはり語り部さんのお話です。文献やビデオを見るのとは、伝わってくるものが違いました。19歳でハンセン病を発症して愛生園に入られるまでの経緯や気持ちを詳しく聞いて、私と同じような年齢で家族と引き離されるのは辛かっただろうなと思いました。けれど、語り部さんはどの話をされる時も前向きな言葉で話されていて、あまり辛さや暗さは感じませんでした。このような状況に置かれても前向きに生きてこられたのは本当に強い方だなと思いました。あっという間に時間が過ぎて、まだまだたくさんの話を聞いてみたいと名残惜しくなりました。ハンセン病の方々は非人であるとされて、子供を作ることが許されなかったということが私にとってとても衝撃的で、国が人殺しをしているようなものだと思いました。このハンセン病のことを知らない人が私の周りには大勢いるので、正しい知識を伝えて風化させないようにすることが私にできることだと思っています。

・正直、僕は今回の研修で初めて「ハンセン病」というものを知りました。はじめに歴史館を見学させていただき、学芸員さんのお話を聞かせていただき、そこで、愛生園内にある愛生学園のお話しや、園内でも職員の方と患者さんとで隔離していたことなどを知りました。特に印象に残っていることは、邑久長島大橋を架けるのに17年もの歳月がかかったということでした。このことから、当時はハンセン病患者というだけで偏見が強かったと感じました。また、そのような偏見が長く続いてしまったのはやはり国の対応がまずかったと思います。邑久長島大橋を「人間回復の橋」と呼んでいたのにはこのような理由があったのかと納得できました。
また、実際にハンセン病にかかった方のお話では、ハンセン病にかかると一家崩壊の危機だったとゆうことや、発病初期には自分でも気が付かなかったなどの貴重なお話をしていただき、さらに知識を増やすことが出来ました。戦時中には、「治す」というよりも、「隔離」という道を選んだことや、戦後にも特効薬が出た後にも隔離政策を進めていたことなどの国の落ち度や、愛生園の中では野球が人気だったこと、目が不自由な人はハーモニカを吹いたり、今はカラオケが人気だったりということも実際に現地に行ってみないとわからないことだったと思います。
ハンセン病」と聞いて理解してくれる人は、少しずつ減ってきていると思います。実際、僕もこの研修に行くまでは知らなかったので、特に若い人の認知度は低いと思います。このまま進んで行ってしまうと、将来的に「ハンセン病」の存在が忘れられてしまう危険性もあると思います。だからこそ何らかの方法で護っていかないといけないと感じました。

・講習会の前は、ハンセン病のことは名前と症状くらいしか知りませんでしたが、講習会でその差別の歴史や患者さんの苦労などを知ることができました。しかし、長島に行って実際の建物をみたり、元患者さんのお話を聞くことで、さらに理解を深めることができたと思います。
特に、患者収容桟橋はいろいろ思うことが多かったです。
長島に来て、1番初めに来る場所であり、1度きたらなかなか出られないということを思うと、
患者さんにとって、特別な場所だったのではないかと思いました。
元患者さんのお話は、すごく貴重なものでした。差別や苦労だけでなく、外に出た時の嬉しさが話を聞いていて1番印象に残っています。
長島に行くことでさらに理解が深められたと思うので、研修に参加できてよかったです。

・「病気に苦しめられたかわいそうな人ではなく、病気の苦しみを乗り越えた強い人。」この言葉に、僕の考えは大きく変わった。歴史館の中にあった数々の展示物。舞台で楽器を演奏している写真や、聞いていると思わず歌詞を目で追いながら口ずさみたくなるような曲、野球などのトロフィー、前向きな歌詞の校歌。そのどれもが、彼らが決して苦しんでいただけではないということを物語っていた。
だからなのだろうか。その中にとても目を引いてしまうものがあった。部屋の真ん中にある巨大な長島愛生園の模型。患者であった方が4年を費やして作り上げたというとても立派なその模型の中央付近にある4文字。「自殺場所」。当時はこの場所での患者の方の飛び降り自殺が多く、患者の方達の病気が治った今でも、行方の分からない人がでるとまずこの場所から捜索しているらしい。病気、そして社会からも苦しめられていた当時には、自ら命を絶つという選択をしてしまう人もいたのだということを思い知らされた。今でも精神病などの理由から自殺をしてしまう人もいるのだそうだ。
 島の散策でも発見がたくさんあった。島に来た患者達を検査するという建物や、患者を消毒するために使用されていたという浴槽を見たが、当時の患者が社会においてどのような扱いを受けていたのかが分かるようだった。だが、語り部の方が言っていたように、島の様子は当時からガラリと変わってしまっていたようだ。規則を破ったり島から脱走を図ろうとした患者を監禁した監禁室は道路によって埋められており、患者が社会との関係を断たれる場所となった桟橋は崩れていた。島にある納骨堂には3631名の遺骨がおさめられており、綺麗な花や中学生がつくったという千羽鶴が飾られていた。当時は患者と職員とを隔離していたという境界線もなくなり今では立ち入り禁止の場所もなくなったそうだ。
 語り部の方の話は、パンフレットやプリント、講義だけでは到底知れないようなことを僕に教えてくれた。愛生園に来たときは病気が治れば出られると思っていたこと、子供が作った農作物も大人と子供の全員で食べたということ、そして、念願の「人間回復の橋」と呼ばれた邑久長島大橋が架けられても年齢や当時の人たちの偏見などから社会には復帰することができなかったこと。
今回の研修で学んだことは、たとえハンセン病がなくなったとしても、ハンセン病のもたらす苦しみはなくなりはしないということだ。今でもハンセン病のせいで苦しんでいる人たちがいるということだ。それでも、語り部の方の「生きててよかった。」という言葉はとても僕の心に響いてきた。

・今回歴史館を見学して、わかったことは二つある。一つは歴史館には野球やテニス等のスポーツや文学などの芸術、それに天体の観測をしていたということを示す物品が多く展示されており、ハンセン病だった人たちも自分たちと同様に文化的な生活をおくっていたこと。もうひとつは患者たちの心情についてだ。神谷美恵子医師の本の内容を抜粋して展示している部屋では当時の患者たちの心情の様子やその変化について詳しく整理されていた。自分もよく持つ感情ばかりで、心情的にも自分と大差がないことがわかった。以上の二点について再確認することができたのが今回の見学における一番大きい収穫だった。「え、そんなことが収穫だったの?ハンセン病患者は私たちと同じ人間の人たちだから大差がないのは当たり前じゃないか」と思う人はきっとたくさんいるだろう。こう思う人たちは差別や偏見に関する学習をした人たちなのだろう。
 先の二点を大きな収穫とした理由は、患者はハンセン病に感染していること意外普通の人と大差がなかったという事実を確認できたからだった。今もかもしれないが、少し前では元ハンセン病患者たちは社会から差別を受けているようだ。自分が事前学習として読んだ本には完治した後も社会から差別されていたことが詳しく書かれていた。日本の国民はこうした少し調べてみればわかる事実を自分の目で確認せずに政府の言うとおりにハンセン病を「感染力の高い感染症」と国民は信じこんでいたため、プロミンが開発されハンセン病が治る病気になった後も元ハンセン病患者に対して異様な嫌悪感を抱き、避けるようになったのだろう。そしてそのイメージを最近まで引っ張り続け、政府も最近になるまで「らい予防法」に対する対策も遅れたのではないだろうか。
 先ほどハンセン病患者が普通に人間であることを少し調べてみればわかる事実としたが、興味がまったくない人からすればインターネットで検索することですれば面倒だろう。ましてはインターネットのない時代では一般の人には調べるのに十分な時間を持つことはできないだろう。だから、ただ無関心なだけだった大勢の人達に責任はないと思う。しかし、政府や報道に関係する人達は違う。大勢の人にハンセン病は治る病気で感染力も非常に弱く、元ハンセン病患者も同じ人間だという事実を発信し、国民の不安を取り除かなかったからだ。もし、早期に国連の方針に従いその事実を発信して入れば、根強い差別は残らなかったかもしれない。ハンセン病以外にも差別や偏見は世界各地に存在している。それらを減らして、なくしていけるのは事実を同時に大勢の人間に伝えることのできる報道機関だけだろう。
 今回の研修でいろいろな知識を得て、差別や偏見に関する考えが深まったように感じる。将来、自分がやりたい分野からこういった問題についてアプローチしてみたいと思った。
今回研修に参加できて本当によかった。この経験はいつか役に立つと思う。