国立ハンセン病資料館研修  C28

2017年6月18日、東京都内の国立ハンセン病資料館を見学させて頂いた。講師の先生方や本から僕はハンセン病について様々な知識を得て、ハンセン病については詳しくなったと錯覚していた。そのせいか、正直な所、資料館に行く前は大きな成果を期待していなかた。しかし、いざ訪問してみると、短い滞在時間であったにも関わらず、自分の浅はかな予想をはるかに上回る成果を持ち帰ることができた。それは知識だけでなく、ハンセン病のことを調べる者としての意識の変革もである。このように僕が学んできたことを報告する。
最初に資料館に到着して30分ほど、自由に館内をみて回った。僕は「ハンセン病と教育」というテーマに着目してこの研修を過ごそうと思っていたので、それに関する展示を中心に見て回った。館内で写真撮影ができなかったことと、自由にみて回れる時間がこの30分しかなかったことが非常に残念であった。しかし、得られた成果は大きいものだった。
第一に療養所内の教育についてである。療養所内では学校とはいっても、初期は粗末なものであった。礼拝堂に机といすを並べた教室で読み書きを中心に教えた。子供のころから療養所に入れられた患者は教育を受けていないため、読み書きが出来ない者も多かった。そのため、子供だけでなく、離れた家族に手紙を書きたい一心の大人も一緒に学んだと言う。教師は知識のある大人が療養所の作業の一環として行った。これらの仕組みは大正初期から昭和28年ごろまで続いた。戦後は地域の分校の扱いとなり、卒業証書が本校の名義になるなどの変化があった。しかし、依然として教室自体は療養所内にあり、それら変化は表面上のものに過ぎなかった。療養所外から教諭が訪れることもあったが当然のように偏見と差別の視線を持った教諭も多かった。やがて多くの子供が卒業していく。邑久高校新良田教室では32年で307人の卒業生を輩出した。治療法が確立され、ハンセン病患者自体が減少するにつれて、子供の数も減っていった。運動会をわずか6人で行うこともあった。運動会ができるほどに回復している子供でさえ、本校に編入することはできなかった実情が伺える。
第二に療養所外の教育についてである。1954年に黒髪校事件と呼ばれる事件が起こった。菊池恵楓園入所者の子供4人の黒髪校本校転入をPTAが拒否した事件である。子供たちは未感染児童と呼ばれ、感染源のらい菌は持っていない健全な児童であったにも関わらず、本校の親たちは大規模な集会を起こし、子供ら4人の登校を阻止したり、自らの子供を休ませて授業拒否を行なった。ハンセン病は遺伝病でないにも関わらず、このようなあからさまな差別が行われ、それを正す者がいなかったという事実が分かる。また、その事件に関して、本校の児童たちの意見が残っている。「未感染児童の子供らを仲間にしてやってもいいと思う」「お母さんがうつったら大変だから休めといったから」などと、肯定的な意見も多くあったようだ。
次に上記のように多くのことを知識として得て、僕の感想を報告する。療養所内の教育が思いのほか水準が低いものであり、驚いた。一生療養所から出さないつもりだった政府からしてみれば教育など必要なかったのかもしれないが、人権を無視した非人道的な行為に憤りを覚えた。また、療養所外の差別の目がわずか4人の、しかも子供に向けられたことに悲しみを隠せなかった。親が子供たちに「うつるから」などと虚言を刷り込み、そうして差別が引き継がれていったことが、歴史上の事件として目に見えることが恐ろしかった。このように、資料館に行くことで、より差別を身近に感じ、療養所内の生活をより知ることで少しは患者さんに近づけたと思う。僕たちは当事者になることはできないが、その僕たちだからこそ見える視点もあると思う。僕は教育という一点を見つめたが、それでも差別の問題が見えてきた。教育以外にも様々な視点を持ち、多角的に差別を見つめることが必要だと改めて感じたことが一番大きな成果であるとも言えるだろう。