国立ハンセン病資料館レポート  Ⅽ26

○国立ハンセン病資料館にいって新たにわかったこと

ハンセン病を患った人たちへの差別はかなり昔からあったこと。
一番古いもので「日本書紀」に朝鮮から来た人達の中に乗っていたハンセン病の患者を途中でおろそうとしたエピソードが記されていた。また絵巻には神聖とされる寺と皮膚病の患者を両極に描くような差別が見られた。つまり、ハンセン病への間違った認識は古くから根付いてしまっている。

・症状が軽い患者も療養所へ強制収容した理由
眉毛が薄い、小指が曲がっているなどの軽い症状の患者は自然治癒するものだが、それをわざわざ強制収容したのは、療養所の中で働かせるためだった。その過酷な労働のせいで症状が重くなってしまうような状況だった。

・差別は無記名で行われる
  差別の手紙などは必ず無記名、応援・援助などはすべて記名で行われていた。
  
・療養所の中での生きがい
療養所の中ではおそろいの着物、物はすべて共用、狭い部屋に大人数で暮らすなど、自分らしさを保てず苦しむ人が多かった。しかしそんな中でも前の職業の技術を使って生きがいを見出す人もいたが、ハンセン病を患いながら作業をすることで症状をさらに悪化させた。

・24時間の患者付き添い
症状の重い患者の世話は職員ではなく療養所の患者たちが行っていた。24時間という一番過酷な労働で、誰も自ら進んでやりたい人はいなかったが、自分たちもいずれこうやって世話してもらわなければいけないという気持ちを患者たちに持たせていた。日本のハンセン病患者の症状が世界的に見て悪いのもこのせいだと言われている。

・療養所内での結婚生活
結婚をすれば逃走する気も起こらないだろうと考えて療養所内での結婚は認められていたが、その現状はとてもひどいものだった。通い婚、夫婦雑居などプライバシーはまるでなかった。また、断種も行われ、おろした子供をホルマリン漬けにされることもあった。しかし奄美大島ではキリスト教が多く信仰されていたため、中絶という行為は許されない行為だった。そのため、生まれた子供は神父が預かり、育てられた。療養所の職員もこれを黙認していたそうだ。つまり、断種だけが方法ではなかったのである。


・今後の問題
  療養所内での人は減り、高齢化に伴い元患者さん同士で最期を見送るのも困難になってきており、いまではほとんど職員が見送ることになっている。そこで、元患者さんが最期をどう迎えるのかが問題となってきている。


○感想 
  資料館では生々しい写真はなかったものの、ハンセン病患者さんが書いた本の朗読、療養所に入る前のたった一枚の写真の表情の暗さなどから、当時の過酷さがひしひしと伝わってきました。見学していて、わたしが特に今回気になったのは、患者付き添いと奄美大島では断種が行われていなかったことです。労働といえば土木作業ばかり考えていたので、患者付き添いという作業の過酷さ、また世界的に見ても日本のハンセン病患者の症状が重い要因となっていたと知って驚きました。ここで「世界的にみて」とありましたが、私たちはまだ海外のハンセン病事情については深く知らないので今後それを調べたいと思ったのと、療養所内での当時の治療の実態についてもう少し詳しく知りたいなあと感じました。そして、奄美大島の事例にもとても驚きました。これをもし全国でしようとしたらできたのかと考えると、それは無理だったのではないかとも思いますが、断種以外に方法はあったことが確かであることは分かりました。
今回は東京に日帰りだったこともあって時間も少なく、また平沢さんのお話を直接聞くことができず残念でした。しかし、元患者さんのお話を多く聞いてきた資料館の人のお話を聞くことができ、ハンセン病についての知識量も増え、さらに知りたいことも増えました。一か月後には長島愛生園なので、それまでに夏の発表のテーマを話し合ってしっかりと決めて、みんなで取り組んでいきたいです。