長島愛生園研修 3年生(C26)

◯新しく分かったこと
•事務本館開放の意味
 →歴史館では、かつての園長室など入所者が近づくことが厳しく制限されていた場所が見られるようになっている。これは、ハンセン病のことを学びにきた人たちのためでもあるが、入所者の人たちに見せたいという意味が大きいそうだ。
•境界線
→当時は職員地帯と入所者の地帯があり、住み分けが徹底されていた。普通の服を着て職員が入所者たちに近づくこともあまり許されていなかったそうだ。
•黎明学園
→職員地帯につくられていた。両親がハンセン病患者だが、自分はかかっておらず引き取り手がいない子どもたちが通っていた。当時は差別がひどかったそうだ。
•十坪住宅
→定員を超えて入所者を受け入れるため、寄付金を募り無駄なく十坪住宅が建てられた。多い時では150棟ほどあったがいまでは5つほどしか残っていないため保存運動が行われている。一棟改修するのに1000万ほどの費用がかかるそうだ。
•愛生園内は差別がなかった。
→自分の故郷では症状がばれないために隠れてせいかつしていたが、愛生園内では差別がないため外を歩ける。それが嬉しいという入所者もいたそうだ。
•盲導ラジオ
ハンセン病の症状では失明してしまう人もいた。そこで、園内の曲がり角がわかりやすいように、ラジオを流すという工夫が行われていた。
•付き添いの仕事の詳細
→不自由舎の人々の食事の準備や、病棟での当直の仕事があった。だいたい1回に100人が付き添いの仕事にあたり、1人1部屋担当した。当直は3日に1回あって、異常な患者を見つけたら看護婦や医者を走って呼びに行ったという。その手間のため、手おくれになることも多かったそうだ。

◯感想
 行きに島に渡る橋を通った時、これがハンセン病患者さんたちが架けるのに苦労した橋なんだなぁと思い出しました。もし、ハンセン病について今まで勉強してきていなかったとしたら何も思わないだろうと思うくらい小さいただの普通の橋でした。その長さは30メートルほどだと聞いてさらに驚きました。頑張ったら声が届くほどの距離です。
 また、歴史館の方で元患者さんたちのお話の映像を少し見ましたが、みなさん愛生園へ来るときの気持ちがとても不安なものだったと知りました。患者さんが来るときに使っていたという桟橋も見ましたが、そこに船がないとただ海が広がっているだけで、もう戻れないのだという気持ちにさせられる場所だったのではないかと思いましたし、幼い頃にこの愛生園に連れてこられ両親と最後の別れとなったあの桟橋は患者さんにとってとても意味のある場所なのではないかと思いました。
 今回は国立ハンセン病資料館の時と違い、元患者さんの生の声を聞くことができ、本当に貴重なお話をいただくことができました。中でも印象に残っている話は、いまの愛生園についてです。何か改善してほしい点はあるかと尋ねられた時に、今は天国のようだとおっしゃっていました。今、入所している方々は、ハンセン病が治って国の制度が直ったとしても帰る場所がなく仕方なく居続けているのだとばかり思っていましたが、なかおさんのように「今が1番いい」と言ってくださったり、行事を楽しんでいらっしゃるのは今の職員さんのおかげなのだなぁと感じました。
 また今の愛生園の話でなく、昔の療養所の暮らしや労働について実際体験されたお話を聞いてみて、今まで調べてきたことが本当だったんだと知ったり、少し思っていたのと違うなということもありました。「これ聞いてもいいのかな」という質問も中にはありましたが、こころよく答えてくださり、わたしたちの質問にできるだけそうように答えようとしてくださっているのが伝わり、とても嬉しかったです。
 去年生命論の発表を聞きに行ったときには、何もわからず十坪住宅の保存に署名したりしていましたが、長島愛生園へ研修に行ってからは本当にこの島を人権学習の島として残していくべきだし、その中の十坪住宅も保存していくべきだと強く思いました。わたしたちの発表でも取り入れたらいいのではないかと思います。
 また、元ハンセン病患者さんはだんだん高齢になってきており、語り継ぐ人もだんだん減ってきてしまっています。やはりハンセン病の歴史はわたしたちの世代がこうして学び、言い伝えていくべきことの大事な1つであると改めて思いました。