「ハンセン病を生きてーきみたちに伝えたいこと」感想文(A14)

無知は罪です。無知は人を傷つけてしまいます。無知は責められるべきことです。でも果たして、誰に無知を責める権利があるのでしょうか。
ハンセン病がどのような病気なのか、ハンセン病患者や元患者はどのように扱われてきたのか、この本を読んで多くを理解できた気がします。特に、ハンセン病患者や元患者、あるいはその家族がどれだけ生きづらい環境にあったのか、著者である伊波さんの語りには、同じ人間として心動かされました。しかし、伊波さんらの辛い経験に自らを重ねて寄り添ったのち、これは素直に鵜呑みにするだけでいいのかという気持ちが湧いてきました。決して、著者の主張に誤りがあったと言いたいわけではありません。どのエピソードも伊波さんや他の元患者がリアルに感じたことであろうと思います。しかし、それらはあくまでも当事者の主観的な、一方通行な見方なのではないかということです。
例えば、第2章に「アイスターホテル宿泊拒否事件に関して。このエピソードを読んで、素直に辛い気持ちになりました。また、ホテル側が最後まで宿泊拒否をしたこと自体は撤回しなかったということに対しては、全く理解できませんでした。しかし、私がここで触れたいのは、事件後相次いだ匿名の批判文書に対しての「とても「心」ある人間の行いとは思えません。一部の人たちの行為とはいえ、残念ながらこれは事実なのです。私たちはこの現実から目を逸らすことは許されません。ですから、あえてその中からいくつかを抜き書きして紹介し、きみたちといっしょに考えて生きたいと思います。」という文についてです。これは、私たち(ここでいう「きみたち」)は全くの被害者サイドにいるという前提をもとに発せられた文章でしょう。こう言われて読み始めると、この後に続く数々の批判文書は、全く理不尽なものであると思わされます。しかし、私が感じたのは、もしかするとこの批判文を書いた人たちにも各々に抱える事情があるのではないかということです。例えば彼らは生活に困った貧しい人かもしれません。あるいは、職を失ったホテルの元従業員かもしれません。またあるいは、日々の鬱憤をただ独りよがりに晴らしたいだけの人かもしれません。確かに、批判文は全て、ハンセン病の元患者に対して配慮のかけらもない内容で、第三者である私さえも遣る瀬無い気持ちにするような内容です。彼らはハンセン病の元患者たちが歩んできた苦難の道のりを知りません。ですが同時に、私たちも彼らの事情は知り得ません。だから私には、彼らに対して憤ったり、責める気持ちにはなれませんでした。
伊波さんは、ハンセン病についてよく知っています。そして私は彼によってハンセン病について知ることができました。また、伊波さんが「差別や偏見は、真実を知らないことから生まれる」と言う通り、知ることで解決に近づく問題は、他にもたくさんあります。今回伊波さんは、ハンセン病という一点から差別や偏見といった問題に向き合ったため、この本がハンセン病回復者という一点から見たものになったのは当然のことですし、この本を読むにあたって、私のようにハンセン病以外の問題に気を取られて、今見るべき問題から若干逸れてしまったのは、不適切です。しかし、知ることで解決される問題が他にもたくさんあると理解できたことは、この本の趣旨に見合ったことではないかと思います。
何かを知っているということは、何かを知らないということでもあります。ゆえに、どんな人にも知らないことがあるため、無知であることを責めることはできません。しかし、無知に甘んじることこそは、本当の罪です。相手の身になって考え、知ろうとすることを怠らず、できる限り無知による被害を減らしていきたいと思います。