「ヒロシマ・ノート」を読んで  I.K


 私たちは小学生の頃に必ず戦争のことについて学んだ。あるいはそれよりももっと前から「原爆」という単語を知っていたかもしれない。そして数々の原爆に関する絵本を読み話を聞き、作文を書いてきたことだろう。その中で一体どれほどの人が「かわいそうだと思った」と書いてきたことだろうか。私はその一人である。しかし私たちが被爆者の方々を気の毒に思うことに一体どれほどの価値があるというのだろう
。この本はそんなことを私に考えさせた。被爆者の人生は原爆のみによって左右されたと考えがちなのは私たちがあまりにも原爆の悲惨さを学んできたからだろう。そして彼らが死ぬとき、振り返られるのは「原爆によって失われた大切なもの」のみなのだと綴られている。正直なところ、私は今までこのような発想をしたことがなかった。例えばある主婦が原爆によって家族を失ってしまったとする。そして何年か経っ
て新しい家族ができて幸せに暮らし、人生に幕を引くとき「あの人は原爆で前の家族を失ったのだ」と辛い過去をメディアは蘇らせるのだ。     
 彼らは原爆の被害を受けたからといって、その人生の何もかもが不幸なものだったと、推し量る権利は私たちには絶対にない。部外者には分からないような感情が彼らの中にあったのだと初めて気づかされた。メディアの過剰な取材が彼らを苦しめていたと思うと胸が痛い。これは猟奇殺人などの被害者に過度な取材が集中してしまうような現象に似ていると思う。私たちにはその事実を忘れない義務がある
が、彼らにその義務はないと私は思う。