「ヒロシマ・ノート」をよんで  S.K


 私はこの「ヒロシマ・ノート」を読む前、この本に対して誤った印象をもっていた。私が今までみたことのある広島の原爆投下に関する本や、テレビ番組などは、その被害についてのものがほとんどだった。だから私は、この本も同じように、被爆者の体験談などが記されているのだろうと思っていた。しかし読み始めてみると、自分が抱いていたイメージとは全く異なるものだった。
 私は今まで、原水爆禁止大会についてほぼ何も知識を持っていなかった。つい最近、日本史の授業で初めてこの言葉に出会ったというレベルだった。授業で原水爆禁止大会について学んだときは、ただ原水爆に反対する運動が日本で起こった、という事実しか知らされず、私はこの問題に対してはほとんど気に留めていなかった。しかしこの本を読み、原水爆禁止運動を巡って起きていた様々な議論や問題を、初めて知った。書き方や内容が私には難しくてすべてを理解できたわけではないが、私の心の中に深く印象づいた。一つは、この問題に政治が関わっていたことだ。世界中から人々が集まり、大きなことを起こすためには、確かに個人の力では難しいことである。しかし、それによって、この平和運動が、本来の広島の人々の願いとは違うものになってしまったように感じた。理想論ではあるかもしれないが、原水爆を廃止させたいと願って行われた集会で、なぜ対立が起きるのだろうか。原水爆をなくしたいという願いを世界に伝えることに、なぜ障害が立ちはだかるのだろうか。この問題にかかわり、詳しく知っている人々からすれば、浅はかな考えだと思われるのかもしれないが、純粋にそのような疑問が浮かんできた。そのような運動による論争とは対照的に、その後記されていた様々な、原爆による被害とひたむきに戦う人々の姿は、尚更力強く、美しく感じた。被爆し、不安や苦痛と闘いながらも子供を産むという選択をした女性、顔に傷を負いながらも、葛藤を乗り越え、ありのままの姿をさらして「伝える」ことを決めた女性、自ら命を絶った人々…。それぞれが、自分にしか理解できない、想像を絶するような苦しみを乗り越え、自ら決断して自らの人生を送ったのだろう。また、自分の人生を考える猶予も与えられずに命を奪われた大勢の人々も決して忘れてはいけない。そのことを改めて思い知らされた。
 この本は、広島に原爆がおとされてから17年以上たった頃に書かれたものである。この当時に生きていた人々にとっては、戦争は身近にあったもので、実際に被害を受けた人も大勢いたはずだ。しかし今の時代を生きる私たちにとって、戦争はずっと昔のことだ。どんなに戦争のことを教えられて、どんなにその恐ろしさを、映像で、資料館で、本で知ろうとしても、本当の意味で理解することは難しい。実際私は、今まで多くの情報を学んできて、その恐ろしさを理解しているつもりではある。それにも関わらずやはり、私たちが生きる、今のこの安全な世界とのあまりの差に、信じられない、そんなひどいことがあったなんてありえない、と思い込みたくなってしまうのだ。この本を読んでいるときにも、被爆した人々の様子を見ていると、耐えられない、どうしようもない気持ちが込み上げてきた。これは事実なのだとどんなに理解しようとしても、やはり逃げてしまうのだ。だからこそ、私たちは学び続けなければいけないのだと思う。どんなに学んでも、本当の苦しみはそれを体験した人にしかわからない。もしもこれから先、私たちやその先の世代が学ぶことをやめてしまったら、過去の悲劇は本当に忘れ去られてしまうのだろう。ありふれた言葉ではあるが、私たちは学び続けなければいけないのだ。

 このヒロシマ・ノートを読み終えてから、私は「カウントダウン・ヒロシマ」という本を読んだ。この本は、ヒロシマ・ノートとは対照的に、原爆を落としたアメリカ側の証言が記されていた。ヒロシマ・ノートを読んだかどうかに関わらず、日本人のほとんどが原爆投下への怒りを抱いているだろう。もちろん私もその一人だ。だから、原爆を落としたアメリカ側がどのような考えを持っていたのか知りたいと思い、この本を選んだ。私は、いかなる理由があったとしても原子爆弾を落とした正当な理由にはならないと考えている。それは、この本を読んだ後でも変わらない。だが、アメリカ側の意見を知ることも必要である、ということを感じた。日本軍によって命を奪われたアメリカ人、日本軍の捕虜であったアメリカ軍兵士の虐殺など、この戦争によってさまざまな人々の命が奪われた。広島や長崎、その他多くの地域で奪われた命を考えると、相手の国に対して恨みを持ちたくなるのは当然であるが、それはアメリカ側からしても同じことなのだという事を実感した。戦争において、どちらが悪いというものは存在していないのだと思う。唯一確実に言えることは、戦争は間違っているという事だと思う。しかし原爆投下に関わったアメリカ人が、そのことに対して罪悪感を持っている人が少ないということに、人間の恐ろしさを感じた。自分の仲間を救うためならば、他の大勢がなくなっても構わない。命令に従っただけだ。そのような考えを持つ人々を否定するつもりはない。なぜならばもし自分が同じ立場にいたら、きっと同じことを考えてしまうと思うからだ。だが、原爆による悲劇を知る私たちからすると、そのような発言は絶対にできないと思う。きっと、これらの人々も、広島や長崎の悲惨な事実から目をそらさず、真正面から向き合えば、このような発言はしなかっただろう。事実を知ることの大切さを改めて感じた。

 このように、私はこれらの本を読んで、「ヒロシマ」について、原爆について、戦争について、考え、悩むことが出来た。情報を得るだけでなく、それについて悩み、考えることが重要であると感じた。今回、このような経験が出来たことは、私にとってもすごく大切な学びとなった。今年の夏、私たちは原爆資料館を訪れることが出来る。その時までに、より多くのことを学び、考え続けていきたいと思う。