原爆   U.S


 初めに、私は原爆に関する内容の感想文を書く上で岩波新書の「ヒロシマ・ノート」と新日本新書の「原爆被害者問題」の二冊を読んだ。まずこの2冊を簡潔にまとめるならば前者はヒロシマで生きた人々を中心に原爆の問題を綴った本であり、後者はヒロシマで何があったのかということが中心に書かれた本である。言い換えれば主観と客観ともいえるような、違った視点、著者の同じ物事に対する2冊の本を読み、私が抱いた感想は大きく二つある。
 一つ目は、「ヒロシマ・ノート」より被爆者の詠んだ詩歌に心を打たれたことである。私はこれまで様々な場面で詩歌を読む機会があったが、これほどまでに衝撃を受けたのは初めてである。これらの詩は表現技法的には繰り返しであり、その点だけを見ればよくある詩である。だが、何よりもの他との違いは被爆者の生の訴えが無駄な工夫なくそのまま詩になって残っていることだと思う。だからこそ読んだときにその情景を浮かべさせられるのだと思う。
 詩を読んでいて、まさしく悲惨な情景や、被爆者の苦しみがそのまま伝わってくるような気持にさせられた。そして、長い言葉で語ることの重要性ももちろんのことだとは思うが、より主観に訴えかけられるような口語調の短文で当時を思い返すことの有効性を認識させられた。世界唯一の被爆国として、後世に原爆の記憶を受け継ぐためにこれからはどんどんと被爆された方々がなくなっていき、生きて戦争、そしてヒロシマの原爆を体験した方はいなくなっていく。そのことを踏まえて当時の記憶をただ長い言葉で説明するのではなく、より後の世代にわかりやすく感じてもらえるように残していくというのがこれからの時代に私たちに要求されると考えた。
 二つ目は原爆の当事者やその身内ではない私たちのできることについてである。もちろん当事者ではないとはいえ、日本という国に住んでいる以上原爆やヒロシマの悲劇について無関係である人間はいないとは思う。しかし、決して私たち、日本のほぼすべての人間は原爆をその身に体験したわけではないというのは忘れてはならない。前述したとおりこれからどんどんと当事者が減っていく中、私たち個人で、また日本という国で、全世界でどんな方向に向かっていくかはよく考えるべきである。
 例えば、被爆当事者がこれからの原水爆についての考えを言うとなれば、
「私は、原爆をこの身に体験して~」
という風にヒロシマを体験した上での意見であるとなれば、無条件に一定の説得力を持つといえる。だがこれからの時代は当事者がいなくなるので
「私は、被爆された方からお話を聞いて~」
というようになる。そういう人しかいなくなってももちろん原水爆問題はこれから先に進んでいくだろう。だが、その進む方向が正しいのかどうか判断できる人間がいなくなっていく。今までは被爆者の大多数が正しいといえばその正しさが担保される比較的簡単な時代であったといえる。これからはそういうわけにはいかない難しい時代になっていく。だからこそ私たちが今までよりも深く考え、慎重に原水爆の問題の解決をしなければならない。
 私はこの感想文を書くにあたり前述の二冊の本を読み、被爆当事者とそれを伝聞によって知った私たちとの違いについて考えさせられた。この先どんな方向に進み、それが正しいことなのかは誰にもわからないことではあるが、世界中のこの問題にかかわる人たちが持たなければならない信念は、二度とこのような惨劇を起こしてはならないということであることだけは確かだ。