広島の人々が救助した魂   Y.Y


 本書を読んで、私は家族と広島の原爆ドームを訪れたときのことを思い出した。当時私は小学二年生だった。九年前のこととは思えないほど鮮明に覚えている。初めて原爆ドームを目にしたときの衝撃は強烈であった。取り囲む空気は物静かで周りは市街地なのだが、そこだけ神聖な場所なのだと全身で感じた。その後に訪れた原爆資料館では、リアルな模型や写真、実体験が記された書類など原爆に関するあらゆる資料を目にし、幼かった私はまじめに素直にその事実を吸収し、受け止めすぎてしまった。それから大阪に帰ってから飛行機やヘリコプターが上空を飛んでいるのを見ることも、音を聞くことも怖くなった。トラウマのようになって戦争や原爆のことを学ぶことを、できるだけ避けるようになったのだ。だから、今回も読むときもだいぶ気が引けた。「また原爆の爆発の恐ろしさや爆心地の生々しい被害の様子が心に刺さるのだろう。」と勝手な予想が頭にあったからだ。
 読み終えてみると私の予想はいい意味で裏切られた。なぜなら、本書はリアルな描写は少なく、言葉がやけに難しい。それに私も九年経って成長した。初めて知る自分が吸収したいと思う知識、衝撃を受けたシーンなど気持ちを落ち着かせて読むことができた。その中で特に印象に残った点について書こうと思う。
 広島である調査が行われた。筆者は「戦後の日本でおこなわれた、道徳的な責任の追及にかかる、もっとも恐ろしい調査」と表現している。それは広島の医師会員すべてに対して、被爆時に彼らが責任を果たしたかどうか問いつめるものだった。このアンケートに対する回答がいくつか引用されていたのだが、私はそれを読んで驚嘆した。広島の医師たちは自らも被爆し、負傷しながらも、医療活動にすぐさま参加していたのだ。当時、健全な状態で救護活動を始めることが出来た医師は二十八名、歯科医師、薬剤師、看護師を合わせても二百名ほどだった。この救護者たちが立ち向かわねばならなかった市内の負傷者は十数万人。絶望的だと感じた。ひとりの若い歯科医師が過労のあげく神経衰弱気味となり自殺した、という記述がある。私は胸が痛かった。彼はきっとたくさんの命を救ったのだろう。自殺を選んでしまった彼と、選ばなかった他の医師。彼らには一体どんな違いがあったのだろう。
 私は将来、看護師になりたい。だから広島の医療人たちをとても尊敬し偉大だと感じた自分が看護師になって、大災害が起こったとする。そのとき私はどのような行動をとるだろうか。逃げずに責任を果たせるだろうか。絶望を感じて自らの命を絶っていないだろうか。被爆後、自殺を選択してしまった歯科医師の彼は責任感が強かったのではないかと考えた。「戦争が終わっても、自分たちが努力しても広島の人たちの苦しみは続けたままなのはなぜか?」という答えのでない問いに圧迫されていたのだろう。彼の追及に答えてくれる人は誰もいなかった。
 彼と他の医師を比較し、私は一つの考え方を手に入れた。それは、「絶望して行き詰ってしまって苦しいときは、一度思考を停止して目の前にある自分のできることだけをしてみる。とりあえず先のことは考えずに、目先のことだけに取りかかる。」というものだ。絶望に負けてはいけない。ある意味都合のいい眼を持つこと。この私の自己流の考え方は決して善ではない。だが、自分がそれで自分自身を守れるのならそれが一番である。私が尊敬する先生が「生きていたら必ずいいことがある。」とおっしゃっていた。私はこの言葉を聞いたとき強く胸を打たれた。死んでしまっては何も出来ない。被爆後何も残らなかった、七十五年間草が生えることはないと言われた広島を見違えるほど復興させてきたのは、絶望に打ち勝ち生きてきた人々だ。被爆の恐ろしさに薄々気づいていた人もそうでなかった人も最期まで絶望に勝ち続けていた人が人間として一番強かったと思う。そしてまだまだ戦い続けている人もいる。
 私は本書の中に登場した勇敢な人々から、大事な考え方をもらった気がする。これから生きていく中で頭の片隅において絶望に勝ち続ける人生を送りたいと思う。