ヒロシマノート 感想文  Y.A


 ヒロシマノートは大江健三郎氏の旅の記録、「広島へ」というプロローグから始まる。それは作者が個人的にとても落ち込んでいる時期だったらしい。憂鬱な作者の旅を1週間で変えたもの、それは広島で出会った人びとの生き方と思想だった。大江氏が語る、真に広島的である人びととはどのような人びとなのか。たびたび触れられる言葉、「威厳」とは何を意味するのか。
 
 威厳という言葉から想像するのは「威儀を正す」、「威勢がよい」、「威風堂々」・・・など、強くてさっそうとしていて、いさぎよいイメージだ。しかし、この本で語られる威厳はそれらとはまったく違う、私が今まで出会ったことのない概念であった。核実験再開に抗議して割腹自殺をこころみ、果たせなくて「とうとう生き恥をさらしてしまった」とかたる老人。作者は「その老人の廉恥心は、そのまま威厳の実体をなしている」・・・という。原爆体験の被害者たちが、みずから感じている恥ずかしさというものを、僕らは、それこそみずからを恥じることなしに、どう受け止めることができるだろう?それはまったくなんという恐ろしい感覚の転倒だろうか・・・と作者は語る。

 そのような威厳を作者はこう表現する。「ひろしまの河」の婦人たち、原水爆被災白書のプランをおしすすめる人たち、重籐博士をはじめとする原爆病院の医師たち、そして、それがどのようにひかえめでちいさな声においてであれ、自分の体験を、みずからの内なる広島を語ったことのある、すべての被爆者たち。広島のそれらの人びとに、まぎれもない人間的な威厳がそなわっていることは、いま不思議でない。このようにしてのみ、威厳ある人びとはわれわれの世界にやってくるのだ。

 私はこの文を読み、作者の言う威厳とはどのようなものなのかわかったような気がした。原爆の被害者でありながら、それでも悲惨な運命に逆らってそれぞれの方法で強く生きていこうとする人々の芯のようなものに触れたとき、作者はそれを威厳と呼んでいるのだ。一見弱い立場にいる人々の内にある静かな強さ、それは私が今まで持っていた威厳のイメージとは異なっていたが、それも確かに威厳だと納得した。そこで私が思い出したのは、修学旅行で知覧や長崎の原爆ドームに行ったことだ。 そこでは実際に戦争の話を聞いたり、原爆の資料を見たりして、実際に経験することのなかった戦争や原爆の悲惨さをより身近に感じたことをおぼえている。今、このヒロシマノートを読んでから思い出してみると、そこには確かに戦争の被害者や被爆者達の威厳が感じられる箇所があったように思える。

 そして、そのような広島の人々の強さを知ると同時に改めて原爆の悲惨さを痛感した。ヒロシマノートには書き出すと止まらないほどたくさんの被爆者達のエピソードが書かれているが、私は、それをもたらした責任が当時の敵国にだけではなく、日本軍や日本政府にあったということに、言いようのない憤りを感じる。なぜそのような形でしか戦争の終結はなかったのだろうか・・・・。戦争の爪跡で今も苦しむ被害者の人びと、そして原爆の恐ろしさと救いがたい現実。それらの間で今後私たちが考えるべきテーマが展開するのがこのヒロシマノートなのだと思う。
 この本は、「ピカドン」という絵本から転用された挿絵の数々と共に、私にとって忘れられない一冊となった。