ハンセン病      M.M


私はハンセン病について二冊の本を読みました。一冊目は、「ぼくのおじさんは、ハンセン病」という本で、この本はある男の子のおじさんがハンセン病を患っていて、そのおじさんに話を聞きに行くというお話でした。私はハンセン病という名前はニュースで見たことがあったので、知っていたのですが、ハンセン病の症状などの詳しいことは全く知りませんでした。生命論の課題の本よりもこちらの本の方が簡単そうだったので、先にこちらの本を読むことにしました。

  この本に出てくるおじさんは、小学校六年生の時に体が痺れるような感じがしていて、このおじさんのお父さんもハンセン病を患っていて、お父さんからうつったのだろうとうことでした。十三歳の時に、あしのひざのところに傷ができたのに痛く無くて、それで病院に行くとハンセン病と診断されたそうです。この頃は、ハンセン病という病名ではなく、「らい病」という名前だったそうです。ハンセン病とは、一八七三年にノルウェーのハンセンという方が発見した病気で、らい菌によって皮膚と主に筋肉に張り巡らされた神経などがおかされる病気だそうです。らい菌の毒力はすごく弱く、うつっても発病することはほとんどなく、今では完全に治るプロミンという薬があるそうです。らい病は昔は天刑病などと言われていて、遺伝して治らない病気だと思われていて、周りからすごくひどい扱いを受けていてすごく心が痛みました。ハンセン病になった人だけでなく、その家族なども周りから距離を置かれたり、嫌がらせなどを受けたそうです。私がもし当時の時代に生きていて、周りにハンセン病の方がいて、そういう間違った病気の認識をしていたら、私もハンセン病の人を避けていただろうし、これは本当にひどいことだなとおもいました。中でも本当にひどいと思ったのが、病のために変形した顔の形から「座敷豚」などと言われ、人間扱いされなかったということです。そのうち、ハンセン病の人たちの取り締まりも厳しくなっていって、少しお風呂の回数を増やしてほしいなどと話しただけで、草津に建てられた楽泉園の特別重監房へ入れられてしまったそうです。当時のハンセン病の方々の扱いにすごく心が苦しくなりました。
 ハンセン病にかかった人は療養所に入ることになっていたそうなのですが、先ほどのようなことと同じく、そこは療養所などというものではなく、収容所のような場所だったそうです。病人に対して看護師の数が圧倒的に少なくて、自分の身の回りのことや周りの病人の世話も自分たちでしていたそうです。おじさんは所内の竹林の竹で籠を作る仕事をさせられていたそうです。しかし、らい菌によって末梢神経が侵されてしまうので、手に感覚がなく、手に傷がいったのもわからず、そのまま悪化してしまい、切断するというケースが多かったそうです。おじいちゃんの周りでは、指がないということは、どれだけ激しく体を使って生きてきたかということの証だそうです。指の感覚がわからず、自分の体に傷が付いているのもわからないままずっと作業をするのは本当に大変なことだなとおもいました。
  また、戦争中の食事はほとんど栄養もきちんととれず、足の不自由な人などを、歩ける人たちが背負って防空壕へ向かうという生活をしていたそうです。なかには「もう防空壕へいきたくない。このまましなせてくれ。」と言う人もたくさんいたそうです。歩くことの出来ない病人は、暑くても寒くても、雨が降る時でも夜中でも、すのこに座らされて、じっと空襲が終わるのを待つだけだったので、そのような気持ちになるのが痛いほどわかりました。戦争中の死者数は五年連続百人を超えており、死因は、慢性肝臓炎や肺結核とされていたけど、実際は栄養失調によるものが大半を占めていたそうです。普通の健康な状態の人間でも、戦争中の食事は栄養が本当に無くて大変だったのに、それ以上に障害を抱えた方たちは、身体的にも精神的にも沢山の大変なことがあったのだろうと思いました。
私は初めてハンセン病についてこんなに詳しく本を読んだのですが、思っていた以上に辛く大変な出来事が沢山書いてあり、たくさんのことを学ぶことができました。らい菌の間違った認識で、ハンセン病の人たちへの行動がすごく悲惨なもので、その部分が一番印象に残りました。そして、ハンセン病について、もっと詳しく知りたいなと思いました。