ハンセン病を生きて   T.K


 この本を読んで、私は自分が無関心の国民の一人であることを思い知らされた。なぜなら、ハンセン病について話を聞いたことはあったが具体的にどのようなものか忘れていたからである。名前は知っているけど…これは日本国民一般の反応だ。自分がそんな一人であったことをこの本を読んでとても情けなく感じた。反省し、私がこの本から学んだこと考えたことをまとめようと思う。
 まず、この本には多くの子どもの発言が掲載されている。それは今の私よりも幼い、小学校高学年や中学生の声である。特に私の心に深く刺さったのは、ハンセン病問題を、自分とは縁のない問題として捉えるのではなく、自分自身をしっかりと見つめて自らの問題として捉える子どもたちの姿だ。今からハンセン病を学ぼうとする私は、ハンセン病の歴史、どのような差別がなされてきたのかをしっかり学んで、ハンセン病をきちんと解釈しようとしていた。すなわちハンセン病をきちんと「知ろう」としていた。しかしそれだけでは本当の意味でハンセン病について理解できていないのだ。自分がもしその立場だったらどうするのか。自分には何が出来るのか。それらを考えて初めて、ハンセン病について理解できる。そのことを教えてくれた。また、いじめや悪口陰口もハンセン病と同じだという言葉。ハンセン病の差別はダメなことだと理解していても、悪口陰口は仕方のないことだと考える人も多い。それはすなわち私のことだった。その言葉は自分に向けられているようで、凄く怖かった。ハンセン病問題にきちんと向き合い、自分の問題として考えようと決意した。自分の言動一つ一つを見直そうと思った。
 もう一つ私の心に刺さったのは、アイスターホテル宿泊拒否事件についてだ。この本を読むまで私はこのような事件がほんの十何年前に起こっていたことさえ知らなかった。この事件で注目すべき点は、ホテル側の形式的な謝罪を拒否したハンセン病療養所入所者自治会のもとにたくさんの抗議文が送られてきたというところだ。要約すると、ハンセン病患者は国に養ってもらっている。それなのに、その態度は何だ。ということである。これを読んであぁ、確かに、と納得してしまっている自分がいた。そう思われても仕方がないと思った。しかしそうではないのだ。これらの後に述べられている著者の見解から私は曇ったレンズを取り外すことが出来た。このような抗議文を送ってくる人はみな社会的被差別者を自分より低い位置に見ている。自分たちよりも低い位置にいることが被差別者たちに同情できる条件なのだ。まさに善意の衣をまとった差別・偏見である。その差別意識は日常的に現れることはない。被差別者たちが自分たちより高い社会的な位置にいこうとしたり、自分たちに直接関係してくると、その差別意識は姿を現すのだ。潜在的差別意識に気づいていない人が未だに多く存在している。そして、それは社会に差別が根強く残っていることを表している。その結果がこのような抗議文なのだ。私のように知らないうちに意識はなくても差別をしている人がたくさんいるのだ。その潜在的な意識を変えるのはものすごく難しい。なぜなら、普通に日常生活を送るだけでは気づけないからだ。今、私は潜在的差別意識というものを知っている。私が周りの皆に伝えることで皆もそれに気づく。そうして和を広げていくことが社会的な意識の変化の第一歩なのではないかと思う。ハンセン病問題は自分と関係のない問題ではない。もう必要とないとわかっていながらも約四十年近くもハンセン病患者を隔離する法律を放置していた。それは、ハンセン病患者が悪いのではない。私たちの無関心が法律を容認していたのだ。そのことに私たち日本国民は責任を感じなければいけない。
 ハンセン病にも、また私たちの日常生活にも共通していえることがある。それは、相手の立場を自分に置き換えて考えるということである。当たり前のことだし、少しの想像力があれば誰にでも出来ることである。もし相手だったらどのようにしてほしいか。どのような言葉が嬉しいか。私たちがまず出来ることはその思いやりの気持ちを持つことだと思う。子どもはこれを持っている。大人になるにつれ社会の汚い部分をたくさん見ることで薄れてしまう大切な大切な感情だ。それを失わないこと、そして差別に関心を持ち、向き合うことが必要だと思った。