ハンセン病と人権一問一答(神美知宏・藤野豊・牧野正直)  T.K


 ハンセン病問題は実に曖昧なところが多い問題であると思った。なんとなく放置されていたこと、それが後々大きな波となってかえってきた、そんな印象を受けた。
 そもそもの隔離の歴史は二十世紀前半までにさかのぼる。それほど長い間ハンセン病患者は不必要な差別を受けていたのだ。日露戦争に勝ち、欧米諸国と対等に戦おうとする日本にとって欧米諸国にはいないハンセン病患者がたくさんいることは「国辱」だった。たったそれだけの理由で、日本という国は間違った歴史を作り出した。
 戦後日本国憲法が制定されてから、成立した「らい予防法」。この頃には、ハンセン病の特効薬となるプロミンによる治療が開始され、ハンセン病は治る病気になった。政府の対応も変わると思われていた。しかし、変わることはなくむしろその道はどんどん遠ざかるようであった。その理由の一つは光田健輔氏を始めとした療養所の園長たちだ。彼らはハンセン病の撲滅には患者の絶対隔離しかないという考えを持っていた。そして有力者の支持を得て政治的な発言力を強めていたのだ。絶対隔離は必要なことではない。そのことは国際的にも認められていた。わかりきっていた。なのに、どうして、と考えざるを得ない。もちろん今の私たちには通用しないような社会の仕組みだったのだろう。今でこそこれはおかしいと発言出来るが、それはいまを生きる私の見解だ。今、間違っていることは間違っていると言える当たり前の世界は、ほんの昔当たり前でなかった。そのことを痛感した。
 前にも述べた通り、絶対隔離政策は必要でないことは国際的にみても明らかだった。だが、「らい予防法」は何十年も生き続けた。それは様々な事情が折り重なってできた結果だ。光田健輔氏は、ハンセン病医療の権威者であった。彼の死後も彼の遺志を受け継いだ人たちが彼の立場を受け継いだ。この頃の日本にはヒエラルキー(階級制度)が未だ存在していた。ハンセン病対策の誤りを認めることは、師の誤りを認めることになる。そんなことが彼ら継承者たちに出来るはずがなかった。これもまた、日本らしい現象だと思った。少なくとも海外よりは多く見られる事例だろう。日本の伝統を守り師を敬うといった文化は素晴らしいものだと思うが、こんなときには疎ましく思える。
 またこの本を読んで初めて知ったことがある。「無らい県運動」についてだ。無らい県運動はハンセン病患者を摘発し療養所に送り込み患者ゼロを目指すという運動だ。皇后がハンセン病患者に同情して詠んだ歌などを利用して、ハンセン病患者は隔離施設に入る方が幸せだ、と絶対隔離を正当化する。何とも卑劣なやり方だと思う。これの最も納得いかない点は善良な市民たちがこれを信じて、ハンセン病患者に療養所へ行くことを勧めたということだ。政府は市民の思いやりの気持ちを利用した。この事実こそ最も憎まれるべきところだと思った。無らい県運動は市民にとって身近なものだった。ハンセン病はそんなにも感染力の強い恐ろしい病気だという概念を国民全体に植え付けた。政府の策略によって国民が騙された。私の目にはそのように映った。国家としてあるまじきことだと思うし、何より恐ろしいのはこれが戦後にも続いていたということだ。日本国憲法では基本的人権の尊重というのが三大柱の一つとして掲げられている。これらの運動のどこから基本的人権を見出せるのか。今でこそ私たちの人権は日本国憲法によって守られていると思うが、この頃には同じ日本国憲法でも守られていない人権があったことを忘れてはいけないと思った。
 そして、ハンセン病問題はまだ終わっていない。この本を読んで私は強く感じた。自分の中で生き続けなければいけない後世に伝えなければいけない、そういう問題以前にまず、ハンセン病患者(回復者)への対応である。国は、ハンセン病政策が間違ったものであったことを認めた。そして謝罪したが、その後の対応は地方自治体に任せられた。それは本当の意味での解決にはならない。かつてのハンセン病患者は現在高齢の方がほとんどで、家族のいない人も多い。そんな人たちが安心して堂々と家に帰れるような地域作りをする必要がある。受け身的な相談窓口ではなく、もっと積極的に支援をする必要がある。そしてそれは自治体に任せるのではなく国民一人一人の意識に関わる。十分すぎるくらいの積極性が求められている。そのことを理解して国民全体がこの問題に向き合わなければいけないと感じた。