ラットの解剖 3D26

私は今でも、1人1匹ラットを自分の手で育てて、自分の手で解剖することの意味はわかりません。もちろん、死んでしまってからも動いている心臓、小さいのにちゃんと形を為している臓器たち、ちゃんとラットのかたちをした赤ちゃん、感動といっていいのかはわかりませんが、解剖をして得られた知識はたくさんありました。でも、数が問題ではないにしろ16匹ものラットをわざわざこのためだけに飼育し、全て解剖して殺してしまうことと、その経験の価値とのつりあいがとれません。
解剖を始めてしまってからはやけに冷静になれてしまった自分にも嫌気がさします。獣医さんが解剖をしている間や自分で解剖を始める前は、ラットがかわいそうだと感じたのか、ただ怖かったのか、自分でもよくわからない感情でしたが、とにかく手の震えと涙が止まりませんでした。死んでしまったラットを手に持つことが出来ず、ハサミを入れることもなかなか出来ませんでしたが、ここで私がラットを解剖しなければこのラットが命を落とした意味が何も無くなってしまうとなんとか踏ん張り、友達に助けてもらいながら1度切ってしまうとなんだか冷静になれてしまう自分がいました。獣医さんがラットのことを「1個」と数えたときは信じられないという思いだったのが、解剖が終わる頃に赤ちゃんを見る友人に「たくさんいるからやってみたら?」と声をかけてしまった自分。言ってしまってから自分でも信じられないと思いました。
いろんな気持ちがぐちゃぐちゃしていて、考えていたことと実際にやっていることに矛盾があって、自分でも今回の解剖についての思いがよくわかりません。ただ、解剖をし終わってしまった今、その死を「意味の無いものだった」と思って終わりにしたくはありません。生きていた頃のかわいらしさや血の匂い、死んでしまってからも暖かかった身体、それから冷たくなった身体、全部忘れたくもありません。とにかく、この死が無駄にならないよう、この解剖の「意味」を考え続けていきたいです。