活動報告(令和2年度5月21日)

前日にClassroomで配布された議論資料(https://drive.google.com/file/d/1Mgz34iekxDfG9ef5LnusaR142FvsDmXF/view)を印刷し、Zoomミーティングに参加。最近慣れてきた画面越しの授業でも、顔を出すのは珍しいし発言することもほとんど無いため、PCに向かって話すのは妙な感じがするが、少しずつ慣れてきたのもまた妙だ。

 

議論資料のタイトルは『生命操作』。これが約20年前に書かれたものであると先生はおっしゃった。当時から人類にとって大きなテーマとなっている。まだ実用化には至っていないだけで、20年、もっと以前にも研究がなされているのだと気付いた。

クローン・ベビーやデザイナー・ベビーの文字を見ると、ちょっと近い未来のおはなしで、でもあまり自分たちとは関係のないことだと思っていたが、現在行われている着床前遺伝子診断 胚選別と並んで掲げられているテーマであって。理解しやすいように噛み砕かれた難しい言葉も、もう現実でよくある事例だと錯覚してしまうほどのものだった。20年前での現実に思えるほど考察されたごく近い未来は、今ではもっともっと近い。議論はこのころから進んでいるのだろうか 進められるのだろうか。ゴールがなければ進むことはないといえるのかもしれない。もうすぐそこにある現実にどう対応したらいいのか考える必要がある。このテーマをみんなで考えるのがとても楽しみだ。

 

今回 第二回の生命論では資料の

 ・着床前遺伝子診断と胚選別

 ・ドナー・ベビー

に焦点を当て活動を行った。

 

〇着床前遺伝子診断と胚選別

まず、▭で囲まれた 想定 を読み、自分がどう感じたか。もし自分がX氏ならどうするかを考え、また、着床前遺伝子診断と選別の説明を聞いた。

 

 この時に出た意見

 ・自分がもし重い神経難病の遺伝を持っていれば、子供が遺伝を持つ可能性も十分にある。それを考えると自分の子供には遺伝を持ってほしくない。

  ・苦しみを味わってほしくないという気持ちもわかるが、これをみんながやって、どんどん勧めていこうというのはちょっとどうなのかなと思うところもある。それだと、ちょっと昔の「障がい者は子供を産まないようにしよう」みたいなものに似ているところがあるのではないか。

 ・生まれてきた子供が障がい者だったら育てるのが大変そう。小学校などで変わっている子はからかいの対象となると思う。子供に苦労して欲しくない。健常な子を選ぶのも一つの選択肢。ただ、胚選別で簡単に胚を捨てられる それを認めてしまうと、今後、生まれてくる子供の遺伝子をいろいろ変える事も認められそうになるのは怖い。

 

と、率直な意見を聞くことができた。どれも聞いているときはそうだなあと頷いたが、こう文字に起こすと考えの違いが分かりやすい。3人でもこんなに意見が異なっている。他の人の意見もきっと新鮮だろうと思った。自分の意見はどう受け止めてもらえるのだろうかとも考えた。

積み重ねてゆく議論で、物事を捉える新たな視点を見つけたり、他者の意見を聞いて自分の意見が形成されていく。だからこそこのような最初の率直な意見は本当に貴重な物だと思う。

 

次に、霜田先生が、こんな意見もあるだろう と4つのいろいろな立場の意見をあげてくださっている、A、B、C、Dの意見を読み、それぞれの意見に対しどう思うか、賛成するところや賛成しかねるところを考えた。そして、自由に発言した。いくつかの意見をピックアップしてみる。

 

 ・(Aについて)自分の子供に病気を持ってほしくない気持ちはあるが、遺伝子を持っているということが分かったから検査をするというところに違和感がある。権利は親でなく子供にあるのではないだろうか。自分が病気や障がいを持った子供を欲しくないとたとえ思っているとしても、子供がもう存在している限り、自分が中絶する権利を持つに値しないと思う。

→どこから子供と考えますか?受精卵だとしてもそのような判断をしますか

→遺伝子診断で検査をしているということは、自分の子供を検査しているのと一緒だと思う。受精卵になったところから生命が存在しているとして、そう判断すると思う。

 ・ひとつの世代の中の話からもっと視野を広げ、考える。生物の一番大きな目的を繁殖だとすれば、着床前診断をし選別をするという手段が、人間が進化する方法として肯定的にとらえられるのでは。

 →障がいを持った子供を育てられず、施設に預けるケースがある。五体満足な子どもでなかったら育てられる自信がない場合、選別を行っても構わないと思う。が、義務付けるのは良くないと思う。

→付け足しで、災害が起こった時逃げ遅れてしまったり、デメリットがいろいろな場面で出てくる。家族一丸となり乗り越えられるのならばいいが、本人も家族も悩むようなことがあるはずで、それならば胚の選別を行った方がいいのでは。

→Dでかかれている『「障害者はこの世に存在しない方がいい」という、少なからぬ人たちの抱いている価値観をより強める』ということを考えると引っ掛かりがある。今、すべての人の人権を守ろうとうごいている人間としてどうなのかなと思う。障がい者の人権を守る動きも進歩なのではないだろうか。

→たしかに生物の目的は子孫を残すことだ。野生界で障がいを持った子は生まれてすぐに死んでしまうが、技術が発達している人間だからこそ障がいを持った子が生まれても育てられる。また、今優性を選ぶことは出来ても、何世代か後に突然変異して障がいの原因の遺伝子が出てきてしまうことを考えると、結局元通りになるのではないか。

→自由に選別できるようになってしまうと、今以上に障がい者に対する偏見が強まるのは恐ろしいと思うが、もし自分がX氏ならば恐ろしいと感じながらも選別してしまうんだ郎と思う。目的や気持ちが違うとしても、結局は同じなのではないだろうか。わからない。

 ・(Dについて)障がい者着床前診断で選ばないことにより、「この子さえいなければ」という親の視線を浴びて辛くなる子どもも減るのではないだろうか。小学校の学年に4人自閉症の子がいた。4人という人数だからこそ自分もその子たちをサポート出来、いい関係を保つことが出来た。これ以上の人数がいたら、みんなのメンタルの面でもしんどくなってしまって、あたりも強くなってしまうのではないだろうか。数を抑えるからこそ、1人当たりの受けられる 守られるためのサービスが充実するとも思う。

障がい者は守られるべき存在ではあるけれども、イコール煩わしいとかいじめを受けるとかあたりが強くなるとか、障がい者の方たちに負の感情を持たれている感じが強いと思った。障がい者の方も人は人であって、綺麗ごとかもしれないが、守るということ以外で五体満足の人と同じ立場になれないのだろうか。

 

沢山羅列してしまった。ここにないもの含め、当たり前かもしれないけれど、どれも心からの意見なんだ と感じた。

また、思うところがたくさんあって、文章を組み立てながら発言することが難しかった。

ここで、森中先生から次のテーマでは小さいグループで行うことにするということを知らせられた。

そして今話している内容はどのテーマであっても議題となることだともおっしゃった。

 

〇ドナー・ベビー

私含む生徒4人+木内先生というグループで議論を行った。だれか1人司会を、とのことだったので生命論内の出席番号2番の私が手を挙げた。司会の経験があまりなかったため不安だった。

先ほどやったように、想定を読み、わからないところは先生に質問ということになった。そして、もし自分がY夫妻ならどうするかなどを考え、話し合った。いくつかの意見を抜粋した。

 

 ・上の子を助けるために下の子を産むこと自体は悪いことでないと思う。結果上の子が助かって、四人で楽しく暮らせるならばいいと考えてしまうが、例えば私が下の子で、「あなたは上の子を助けるために生まれてきたのよ」と伝えられた時、上の兄(姉)が病気でなかったら生まれていないことになるため、そこでショックを受けるかもしれない そうかんがえたら、自分がY夫妻ならそれを伝えないようにすると思う。

 ・ありだとは思う。上の子は救われ、下の子も健康に育つならいいとは思うが、移植のために子供を作ることは道具として扱っていることになる。助けるためだけに産むとなることを考えるとどうなのだろうと思う。

 

またこれまでの意見で、選別の際に胚を捨てることについてだれも触れていなかったため、胚を命として見ているのかを全員に聞いた。意見を聞くとたまたま全員見ていないと考えていることが分かった。どんなことでも、このように意見がきれいに一致していても世の中の多数派だと直結しないことを忘れてはいけないと思う。

そして、A~Dの下に書かれている、『カップルがともに聾(ろう)あるいは軟骨形成不全で、自分たち固有の文化や生活スタイルを子にも受け継がせるために、胚選別によって自分たちと同じ「障害」を持つ子を得るという選択も、しばしば議論の対象となる。』という部分に衝撃を受けた という意見もあった。読んでその部分に対し思うところがあるし、議論してみたい。もっと時間があればいいのにと思った。

続いて、A~Dを読み、自分の考えとそれらを比較した。上記もあり、Dへの意見は明らかであったため、A~Cと関連付けた意見を出し合った。

 ・Bのように、どちらもかけがえのない子供として愛情を注いでいるのにも、生命の尊厳を弱めていると言えるのか。ちゃんと育てれば尊厳を守っているのではないだろうか。

 ・Cは理由が良くないと言っている。Bの前提のきっかけについてのことだから、真逆の意見というわけではないのでは。ドナー・ベビーについてはありだとは思う。Cは今の人間社会とは合っていないように思える。

 ・上のような意見でCがあるならば、Cに反対する。生命の尊厳はBのように後から生み出すことが出来ると思う。

 ・Bは親の目線で語られている、子供の意見ではないものだ。立場が上の親は何とでもいえるわけで…

 

このような意見が出たところで、木内先生から もし自分が兄のために選ばれて生まれてきた子だったら、そのことを親から説明されたいか それともそれなりに幸せに生きているのであれば説明されなくてもいいか を問われた。

 ・そもそも説明する親がいるのか?自分が親なら絶対に言わない

 ・いると思う。もしかしたら偶然に書類をみてしまったり…

たとえば、『実はお兄ちゃんお姉ちゃんは病気だったけど、助かって今元気なんだよ』『へー、どうやって助かったの?』『あなたの血液をーーー

 ・悟ってしまうだろうな

 ・家族間での隠し事を禁止にする家庭だというべきこととなるのだろうか

 ・この年であればああそうだったんだとも思えるが、小さかったらその影響は大きいと思う。

 ・ちゃんと育ててくれたらいい、と思えるかどうか。想像するだけで考えると、私としては助けるために生まれた というのは生きている意味がある プラスなところもあるのでは、と考える。

・手段として生まれたにしても、今は個人として生きているのであって、あまり落ち込むことはないと思う。

 

こう文字にすることでその時なるほどと同意していた意見にも新たな側面が見えてくる。たとえば『生まれてきたことに意味がある』というプラスにとれる文も、『生まれてきたときには意味があった』と、少し形を変えるだけでマイナスのイメージになったりする。本人の解釈も少しの思考のズレで考え方も真逆になってしまうのだと少し怖くなった。

せっかくなので残り時間40秒ほどのところで木内先生の意見を知りたいという意見で、話を伺うことができた。。反対派の意見を短いながらも聞けて本当によかった。どこまで許されるかというのはこのテーマだけでなくすべてのテーマの問題となっていることだと思った。

 

グループでの議論を終え、それぞれのグループの司会の発表となった。正直司会という司会は出来ていなかったという自負しているのもあって、これだけはせめてちゃんとしないとと思ったが、書いていたメモが整頓されておらず、結局は付け足しをお願いした。次からもっと頑張ります。

森中先生はこうおっしゃった。

下の子にとっては兄弟で健康に育っているのだから問題ない、が、選ばれなかった子はどうなのだろう 受精卵は子どもでないという考えもあるけれど…選ばれた子 は 良かったねということになる。

 自分の、自分たちのグループではなかった考え方も取り入れて議論を行うことの難しさと大切さを学べた。

 

他のグループの意見はブログに書いていただけるので省略します。

他のグループの発表で初めて気づいた論点もあった。新たな視点も知れた。

 

 

一つの事柄に関して賛成・反対 とその理由はそこそこの頻度でグループ内などでも被ることはあるが、見つける議題は人によってばらばらで、そこからのグループでの議論の進め方は被ることはなさそうだ。そのような面でも少人数での議論は面白いと思う。

長いのに読んで下さりありがとうございました。