ラットの解剖 感想 C30

 四限目終了後すぐに集合をかけられ「この箱持って行って」と渡された段ボール箱の中でモゾモゾと動く感触を覚えている。僕はそれまで、尻尾だけが禿げているように見えるのが特徴の、まさしくネズミな小動物を間近で見たことが無かった。ゲージに紙屑を敷き、選んだオスのあの印象的な尻尾を初めて掴んで入れた。綺麗な白色の毛に赤い目は、毎日のように見ても飽きず、時間を奪うものだった。名前は付け難く、かと言って何も呼ばないのは可哀想だし、自分もモヤモヤした気持ちになるので、韓国語で友達を意味する「친구(chin-gu)」と呼ぶことにした。思えば、친구と呼べば若干反応した気がしないことはなかったので、それが彼の名前になっていたのかもしれない。それから、世話をするときは韓国語で話すなど、飼育者が奇行に走りつつも、すくすくと成長していった。オスだからか、成長具合も目に見えて分かり、特に週明けは約3日空けてのご対面なので毎度大きくなっていることに驚いた。初期のころとつい先日の写真を見比べると、幼げな体から、本当に成熟した体つきに変化しているのが分かる。彼の世話はしやすかった。かなり大人しく、健康そうな状態に安心していた。そうして5週間単独飼育したのち、交配のためにメスの個体と同じゲージに入れることになるのだが、入れた途端、2匹がケンカしているように見え、とても不安になった。もし解剖前に死んだりしたら留年だと担当教師に脅されたり、あまりの心配ように親バカやんと同級から笑われたが、2匹の相性が良く交配も順調に上手くいくことを願うばかりで、交配開始後3日ほどは本当にドキドキしていた。その後、体に傷ができることもなく順調に進んだ。解剖前日は、最後の世話の日だ。いつもより敷く紙屑の量を多めにした。しかし、丁寧に世話したにも関わらず、二匹そろって脱走しかけられた。正確には脱走した瞬間に無事捕獲できた。まあ、つまりはゲージの外から出たということだ。脱走事件は他の人のあのラットただ一匹だけだと思っていたのだが。

 解剖はとても楽しみにしていた。動物の臓器をじっくり観察する機会は、将来目指す進路的にもおそらくこの一回だからだ。しかし、解剖の日が近づくにつれて、彼を殺す罪悪感を自覚した。そして、2年半ほど前に亡くした愛犬のことを思い出すようになった。朝5時頃に、泣いている姉が「○○、死んじゃった、○○、死んじゃった」と何度も何度も繰り返しながら僕を起こしてくれ、状況を呑み込めないままリビングに向かうと、安らかに横たわる愛犬がいた。涙が止まらないまま仕方なく学校に行ったが、お葬式をすることになり、早退して家で待っていた愛犬を撫でてみると、冷たく硬くなっていた。僕はその感触を今でもはっきりと覚えている。ラットの解剖前日、その記憶と解剖に臨む不安をどうしても重ねてしまい、とてつもなく怖くなった。母にも相談し、明日はラットの彼だけのために、彼の命に責任をもって、解剖で多くのことを学ぶ決心をした。

 解剖は、まず講師の川合先生が手本を見せて下さった。瓶の中のペーパータオルにエーテルをドバドバと染み込ませていく。遠くからでも強烈な臭いがする瓶にラットを入れ、密閉する。先生の解剖用のラットは瓶の中で暴れていた。やがて動きが止まったラットを先生は、素早く切開して、摘出を行った。先生が内臓、脳などの摘出を終えたところで、次は生徒の番である。彼は、いつも大人しかったのに、この日だけは僕が掴むのを拒んだように思えた。麻酔で死んだ彼をそっと取り出した。この時初めて僕の両手に横たわる彼の重さを感じ、しっかりと覚えた。切開は左利きということもあって大変だった。内臓が露わになったとき、肝臓の大きさに驚いた。肝臓摘出にあたって、大きな血管を切るのだが、そうすると大量に出血し、見えやすくするために、ティッシュ等で取り除かなければならない。その操作は、医療ドラマの手術シーンで見たような感覚だった。肝臓に続き、脾臓膵臓、腎臓、そして胃から腸までの消化管を取り出した。一つ一つの器官をじっくりと観察した。肺と心臓もとても綺麗に摘出することができた。肺は見事なピンク色で、心臓の筋肉は他のよりも硬かった。他にも生殖器、眼球、脳を摘出した。脳を取り出した空洞を観察すると、ひも状の視神経が確認できた。メスのほうでは、妊娠していたようで、数匹の胎児が子宮内に並んでいるのを確認できた。

 解剖は上手くいき、健康な臓器を観察することができた。彼を最大限に活用することができたと思う。解剖している間は、好奇心のままに時間が許す限り没頭した。体力的にも精神的にも疲労感があった。とにかく疲れた。後片付けを済ませ、ようやく全ての活動を終えて今に至るが、彼を殺して解剖したことに対する気持ちは、罪悪感という言葉で形容するのは少し違う気がして、とにかく心の整理はまだできていない。その日の夜、目を瞑ると解剖の映像が脳裏に流れて、なかなか寝付くことができなかった。

 彼が死んだときも、愛犬が死んだときのような感情を抱くと思っていた。胸が首が絞めつけられるようで、今すぐに心臓を取り出して放りたくなるほど苦しく、底なしの悲しさがあると思っていた。違った。感覚は虚無に近かった。エーテルを充満させた瓶に彼を入れた以降、申し訳なさはあるものの、これから理性を保って解剖に臨まなければならないという使命感、解剖中の好奇心、終えた達成感らが彼に対する気持ちより上回ってしまっていたのかもしれない。解剖前は、楽しみな気持ちと罪悪感を分別できていたはずなのに、解剖当時の僕の思考はいろいろな感情に追いつけていなかったのだと思う。今もこの禍々しい感情に名前を付けることができず、戸惑いを隠せない。でも、このように文章にしていくと、だんだん胸が痛くなってくる。戒めを持っておきたい。愛犬同様に彼を忘れたくない。ごめんね、ありがとうともっと伝えるべきだ。毎日世話をしていた習慣が空虚なものになったと自覚したとき、気持ちは露わになってくれるだろうか。

 長々と書いてしまいました。最後まで読んでくださってありがとうございます。