7/14 第十回 ラットの解剖 A14

今回は、川合清洋先生にお越しいただき、ラットの構造等について講義を受けたのち、5月28日から今日まで飼ってきたラットを解剖しました。


生き物がモノになる瞬間を感じたことがありますか。

ラットの解剖をしたいですか、と聞かれて、ぜひ!と答える人はなかなかいません。ラットの解剖目当てに生命論を選択したという人はいないと思います。
生命論を選択する理由は、不純なものを除けばおそらくひとつ。生命倫理を学ぶため。ラットの構造を知りたいからではありません。 重要なポイントは、生命論は知的好奇心を満たすためのものではないということを選択者が皆、理解しているということです。

今日、一ヶ月と二週間世話をしてきたラットを麻酔で殺し、皮を剥ぎ、お腹を断ち切って開き、内臓を掻き分け取り出し、骨を砕き、脳をほじくり出し、羊膜を剥いで胎児を出し、水に浮かべました。

なんて酷いことをするのかと言うでしょう。でも、実際にやったことのない人には言われたくない。

講義にいらした先生の演示はあっという間でした。机の上にハサミやピンセットなどが用意され、もうすぐ解剖が始まることは確か。でも、本当の本当にこのラットたちを解剖するのか、心のどこかで半信半疑。モヤモヤしたようなしていないような、不安なようなそうでもないような。今までにない感覚でした。映画やドラマで、殺人を企む人の、本当にやるのか、という気持ちはこんな感じなのだろうかと感じました。そんなわたしの迷い?をよそに、先生はハサミを持ってお腹に近づける。本当に?本当に切るの?え?本当に?……ちょきん。本当に切った。本当に。というか切れた。簡単に。あのときの、切るか切らないかの一瞬だったであろう時間は今までに味わったことがない。ここでの緊張は、一緒にいたみんなで共有できると思います。そのあとはあっという間に解剖が進んでいきました。今思えば、あの一太刀が解剖の高い高い(こえて見ると意外に高くない)ハードルだったのでしょう。

解剖中、私を驚かせたことが一つあります。脳を見るために頭の皮を剥いで頭蓋骨を割っているとき、ふと気づいたのです。そのとき自分が、そのラットを生き物の体としてではなく、モノとして扱っていることに。ラットの体を扱う自分が図工の時間と全く違わないということに。理性よりも知的好奇心が勝った自分が、どうしようもなく恐ろしいと思いました。ふつう、好奇心旺盛は褒められることです。しかし今回ばかりは、それがわからなくなりました。また、この気持ちというのは、ラットに対する申し訳なさからというわけではなく、あくまで自分の理性への信頼の崩壊からきています。理性的には、解剖に際し生き物を扱っている意識を持つことが最低限のマナーであると認識しているのにもかかわらず、好奇心がそれを忘れさせ、ただラットの構造に集中させていたのです。

先生は世話の仕方やからだの構造や解剖の仕方は教えてくれました。しかし、その後のことは何も言いませんでした。そこについて議論させることさえありませんでした。こんなの生命論の授業じゃない。生物の授業じゃないか。そうも言えるかもしれませんが、私は、それはそこに、実に身近であるにもかかわらず世界の果てにも答えのない問いがあるからでしょうか。ただ、私は全く、いい経験をしたという気持ちは湧いてきません。

このブログは課題として取り組んでいるものですし、公開範囲は限定されていないとはいえ、ほとんど外部の人は見ていないと思いますし、それが分かった上で投稿しています。あわよくば誰かが見てくれたらいいなくらいで。しかし、今回の経験だけは、他の人にも知ってほしい。

今回何より学んだのは、皆がためらう割に簡単にできてしまうということ。