がんとがん治療 ~どっちが苦しいのか~      C組 3番

 “がん”と聞いたときに真っ先にイメージすることは何だろうか。「近年患者が増加している」「死亡率が高い」そして、「闘病生活が苦しい」というものなどが挙げられるのではないだろうか。実際に、テレビなどの一般的なマスメディアで特集されている多くのがん患者は、抗がん剤の副作用からであろうか、髪の毛が抜け落ちている人や、毎日吐き気と闘っているというような惨憺たる描写をされているように思える。そこで、最近盛んになってきていると聞く、痛みを伴わず、また、従来の抗がん剤よりも比較的安価で提供することができるなどというような利点を持つ、まさに夢のような最新のがん治療の方法について調べていると、興味深い記事を発見した。それは、端的に言うと「がん治療は不要」「がんよりも抗がん剤治療の方が苦しい」というようなものだった。私自身、今までがんを手術で取り除けない場合は抗がん剤などでがんと闘うのが当たり前だと考えていたので、そのような考え方に非常に興味を抱き、そのことについてもう少し深く調査を進めた。すると、主に、近藤誠(元慶応義塾大学医学部専任講師現近藤がん研究所所長)がそのような論を唱えていることを知った。そこで、がんという病気自身が持つ苦しさと、がん治療を行うことによって生じる苦しみは果たしてどちらがきついのか、また、がん治療は本当に行うべきなのかとういことについて、近藤氏の主張を紹介するとともに、その意見に反対する人の意見、また、私の意見を述べたいと思う。

 近藤氏は、自身の著書のなかで、抗がん剤治療を全否定するような立場に立っている。癌と肉腫を合わせて“がん”と呼ぶそうだが、実に200種以上ものがんが存在するそうだ。様々ながんが存在するわけだが、治療しやすいがんもあれば、治療しにくいがんもあり、また、症状が軽いがんもあればすぐに死に至るようながんもある。それらのがんは抗がん剤の感受性によって、A群からD群の四つに分類される。そのうちA群に属する、急性白血病悪性リンパ腫、絨毛がん、睾丸腫瘍などは抗がん剤を投与することで完治することが見込まれているそうだ。近藤氏もこれらのがんの治療法としては、抗がん剤治療が真っ先に選択されるべきであると抗がん剤治療に対して賛同している。しかし、近藤氏が「本物のがん」と呼ぶ、再発・転移したがんに対して抗がん剤を用いるのは、全くの無意味だと主張している。そもそも抗がん剤治療には二つの目的が存在し、ひとつが“がんの完治率を高めるための治療(術後補助療法)”であり、もうひとつが“再発、転移したがんに対する延命治療”である。近藤氏が真っ向から反対するのが後者である。一般的に、再発・転移したがんは完治することが不可能なのだそうで、彼は、それらのがんに対する一切の治療に反対する。手術は「人工的な大ケガ」と揶揄しており、実際にがん摘出手術によって免疫力が低下し、結果死に至ったという見解を示す例を提示している。さて、本題の抗がん剤治療についてだが、彼は抗がん剤自身についても批判しており、今すぐ認可を取り消すべきだという抗がん剤をいくつか挙げている。下の図1は「進行期胃がんにおける抗がん剤投与群と非投与群の比較試験結果」を表している。すなわち、抗がん剤を投与した場合と投与しなかった場合の生存率を比較している。


図1 進行期胃がんにおける抗がん剤投与群と非投与群の生存率の比較(省略)

 

彼は、このようなグラフは確実に指数関数のように下に凸なグラフになるはずで、図1のように上に凸になっているグラフは人為的操作が介入していると主張している。そのため、抗がん剤を投与することによって得られる延命効果は偽りであると主張している。そのため、抗がん剤を投与することによって延命されることはないのだから、抗がん剤を投与して強烈な副作用に苦しむよりも、食欲の低下やめまいなどの具体的な症状が現れるまでは、たとえ、がんだと診断されても放置して今まで通りの何不自由ない生活を送るべきだと主張している。もし、症状が現れたら、現れるたびに放射線治療を行うようにすれば、常に治療を行う必要はないという。もともと彼が勤めていた病院に訪れた患者には放置治療を勧めていたそうだが、実際に他の病院で宣告された寿命よりも長く生きた人も多いそうだ。

 このように、全面的に抗がん剤治療を否定している人がいる一方で、近藤氏の主張が科学的、医学的ではなく、何の根拠もないと意義を唱える人もいる。

 勝俣範之(国立がん研究センター中央病院内科医)はそのような人の一人だ。勝俣氏は、近藤氏の著書『抗がん剤は効かない』にたいして真っ向から反対し、『「抗がん剤は効かない」の罪』という本を著している。彼は、抗がん剤治療に大賛成しているという立場ではなく、近藤氏を批判するという立場だが、抗がん剤の効果についても言及しているので今回紹介することにする。そもそも“抗がん剤が効く=がんが治る”ということではなく、抗がん剤の効果はあくまでも腫瘍の大きさを小さくするというものである。腫瘍が小さくなることによって結果的に延命する、ということが抗がん剤治療の目的の一つだ。近藤氏は、政府や製薬会社と癒着し、資金を提供してもらった臨床医や研究者が新しいがん治療薬の開発に携わっているため、先ほど述べたようにグラフの捏造が起こり、特に製薬会社が利益を追求していると主張する。しかし、勝俣氏は図1のようなグラフでも上に凸になることは多々あり、そこに人為的な操作があったとは言い切れないという。そのため、人為的操作が介在しているため、延命効果は見込まれないと近藤氏が主張する抗がん剤についても延命効果は見込まれ、抗がん剤治療を行う意味があると主張する。勝俣氏は人為的操作を行うことは難しいともいう。ICH-GCPという治験に関するルール、具体的には、本当に手順通りに治療が行われているのかをモニタリングする、第三者の監査を必須とする、というような厳しい決まりが定められているため、人為的操作を行う隙がないと主張する。また、近藤氏が挙げている例はごくごく一部の例にすぎず、また、データも極端に偏っていると指摘する。そのため、医学界では近藤氏の論は全く見向きもされていないし、近藤氏の放置治療に関する論文がないため、根拠があるとは言い難いと主張する。また、そもそも、“放置治療”というものは、一般的に最も信頼性が高いとされている「診察ガイドライン」には一切記載されていないため、放置治療を行うということは“人体実験”に等しいとも述べている。

 このように、勝俣氏は近藤氏の抗がん剤治療は行わない方がよいという主張に対して一部を除いてほぼ全面的に否定する。では、果たしてどちらの意見が正しいのだろうか。また、もし私たちががんを患った時には、抗がん剤治療を受けるべきなのだろうか。それとも、抗がん剤治療は受けない方がいいのだろうか。

 私は、今回紹介した意見を二人が著した何冊かの本から知った。ある通販サイトでは近藤氏の本を酷評している意見が多数見られた。真偽はわからないが自称医者の意見が多く、そのため、私は近藤氏の意見を否定的に考えていた。しかし、実際に本を読んでみると、果たしてこの認識は正しいのだろうかと疑問を抱くようになってきた。近藤氏も勝俣氏も、どちらも、臨床実験で行われた抗がん剤の効果を表したグラフをどう読むのかという点に論点を置いている。しかし、第8回の生命論でお話をしてくださった、土屋貴志先生の印象的な言葉を思い出した。正確には覚えてはいないが、「医学というものは可能性の科学だ」という内容だ。あの薬はあの人たちに効果があったから、自分にも効果がある。あの人たちには効かなかったから自分にも効かない。そのような考え方は必ずしも正しいとは言えない。また、「使った、治った、効いた」という“3た論法”は不確実で、それは抗がん剤にもあてはまるのではないだろうか。これは近藤氏も述べているのだが、「抗がん剤を使っているのだから、(こんなにしんどい思いをしているけれども、)延命しているのだ」というのは正しいとは限らない。近藤氏はそこで、苦しい思いをしても延命しているとは限らないのだから、それなら抗がん剤治療はしないで楽しい人生を送る方がはるかにいい、という結論に至っている。もちろん、彼は医者で、私はただの一高校生であるため、私が考えることは物事の本質を見ることが出来ているとは甚だ思えないが、私はそのような考え方は安直なのではないかと思う。もちろん彼の主張には彼なりの根拠、裏付けがあるが、それは勝俣氏がいうように、数が少なく、また、恣意的に解釈しているような点が多々見受けられる。しかし、私を含めて、一般的な民間人は専門的なグラフの読み取り方など知っているはずもないわけで、少し知識がある人、特に医者や政治家、ニュースキャスター、ジャーナリストなどにそそのかされれば、それを信じてしまうのは至極当然なことであるかのように思える。近藤氏はその心理を巧みに利用しているように思える。しかしもちろん、勝俣氏の近藤氏に対する反論の中で述べている根拠も果たして正確な情報なのかと問われるとその真偽は分からない。これらのことを含めると、もちろんデータも重要だと思うが、データ云々の個人的な主張は医学という分野においてはあまり信用することができないのではないかと思う。ただし、不確実なデータでも、多数のデータが存在すれば、どれが信用することができるデータなのかということも判断しやすくなる。実は、対照的な意見を持つ近藤氏と勝俣氏であるが、彼らは二人とも、A群に分類されている急性白血病等に対する抗がん剤治療には何の異議も唱えていない。また、もう確実に治らないと分かっているのにもかかわらず抗がん剤治療を勧めることに対しては二人とも反対している。そうなると、そのような意見はより正確である確率は上がるのではないだろうか。結局私が言いたいのは、“セカンドオピニオン”の大切さだ。一言で医者と言っても、各々に専門分野があるため、どうしても自分の専門分野の治療のみを勧めがちになってしまうそうだ。また、患者は知識の面において医者に劣っているのは当然であり、担当医に限られた選択肢しか勧められなかった場合、果たしてその治療法が最善なのかとういことを判断するのは至難の業だ。しかし、複数の選択肢(例えばがん治療について言うと、摘出手術、抗がん剤治療、放射線治療、そして、放置等)を提示してくれた場合には、数ある中から選択するわけなので少しは安心して治療に臨むことができるのではないだろうか。そのため、担当医以外の医者から意見を聞く、セカンドオピニオンという概念が重要となってくるのではないでしょうか。しかし、それだけでは不十分だと考える。やはり、“インフォームド・コンセント”も必要不可欠なのではないだろうか。勝俣氏もインフォームド・コンセントの重要性について言及している。現在、ほぼすべての人がインターネットを利用して情報を得ているのではないだろうか。しかし、最近揶揄されているようにインターネットは誤った情報が氾濫している。なんと、インターネットから得られる情報のうち、50%は誤った情報なのだそうだ。では、私たちはどのようにして正しい情報を得ればいいのだろうか。私は担当医がしっかりと正しい情報を患者に提供することが大切なのではないかと思う。よくドラマなどで、患者が落胆することを回避するために患者本人には本当のことを言わず、家族や兄弟にだけ伝えるという描写をよく目にする。さらに、ある医者は、「一番つらいのは、『癌の告知』ができないときの嘘である」、「医者は嘘つきのはじまり」(入野忠芳「拝啓、患者サマザマ」中公新書200338)と述べている。もちろんそれは医者側の患者への配慮なのだと思うが、それでは患者は何の為に治療を受けているのか分からないという事態が起こりかねない。私が患者本人であった場合、そのような事態になることは是が非でも避けたい。しかしもちろん、自分が重篤な病気であることを知り、落胆することはあるだろう。だから、もし患者が自分の病気について尋ねてきたら本当のことを包み隠さずに言うようにするというのはどうだろうか。ここで重要なのは“本当のこと”という点だ。私は信じたくはないのだが、近藤氏は次のように主張している。

 

   医者が余命を宣告するときはたいてい、短めに伝えます。(中略)なぜ、

   余命宣告は短めなのか。ひとつには、患者さんが亡くなられた場合に、

   家族などからとがめられないように、つまりリスクヘッジのために、最悪

   の場合を想定して伝えるから。(中略)治療が命綱の医者にとって、余命

   を短く言えば言うほど「うまみ」がまします。

   (近藤誠『「余命3ヶ月」の嘘』KKベストセラーズ201318-20

 

このように医者自身の利益のために本当のことを言っていないというのだ。果たしてこの主張が事実なのかどうかは知る由もないが、もし事実だった場合、インフォームド・コンセントなどただの幻想に終わってしまう。だから私は、患者を気遣って嘘をつかずに事実をありのままに伝えること、また、自分の利益だけを追求するのではなく、患者主体に情報を伝えることが大事だと思う。

 今まで、主に医者の義務としてのセカンドオピニオンインフォームド・コンセントについて述べてきたが、やはり患者自身が情報を得ようとする姿勢も大事だ。先ほども述べたようにインターネットには誤った情報が溢れかえっているが、確かな情報も少なからず存在する。また、書籍から得られる情報も多い。しかしそこでもセカンドオピニオンが大事になってくる。いくら有名な著者であっても必ず正しい情報を発信しているとは限らない、だからこそ、同じ事柄について多方面から、多角的に知ることが大事だと思う。このように、医者からの正しい情報と、自分自身で調べた確かな情報、この二つに鑑みて、「医者が言っているからこの治療でいいや」というような安直な判断をしないようにしなければならないと思う。

 さて、今まで一般論の話をしてきたが、結局抗がん剤治療は受けるべきなのだろうか。お分かりだと思うが、「時と場合による」と思う。近藤氏が主張していることは極端すぎるのではないだろうか。彼は、すべてのがんに対して放置治療を勧めている、すなわち、「放置治療のみが“善”、抗がん剤治療は“悪”」というような主張をしているように感じられるが、それは間違っているのではないだろうか。「一部のがんには放置治療が有効で、一部のがんには抗がん剤治療が有効で、また一部のがんには放射線治療有効で、、、」というように柔軟な対応が必要なのではないかと思う。その点、勝俣氏の主張は極端ではなくより共感することが出来た。先ほども述べたように、医学というのは可能性の科学であり、誰も“絶対”は知らない。だから、抗がん剤治療は受けるべきかどうかという議論自身がナンセンスな議論であって、その状況その状況で医者と患者の両者が納得する治療法を実践することが大事なのではないかと思う。

 では、私自身ががんを患った場合、どうするのか。二人に一人ががんにかかるという事実に鑑みても、そのようなことを考えることは大事なのではないかと思う。実は、数年前に祖母ががんを患い、抗がん剤治療を行っていたのだが、そのときの苦しそうな姿を忘れることはできない。だから、抗がん剤治療は“苦しい”というイメージがあったので、近藤氏の主張を知ったときに「抗がん剤治療をせずにがんを治療することができるのか」という一種の希望のようなものを抱き、近藤氏の主張に興味を持った。しかし、他の文献によると、近藤氏の主張は科学的根拠が乏しく、信用できるものではないというものであった。そこから学ぶべきことは、情報を鵜呑みにしてはいけないということだ。だから、私ががんを患った場合、どんな治療を受けるかを決定するかにおいて最も大事なことは、情報の吟味だと思う。近藤氏の意見に反対しないような口ぶりで意見を述べてきたが、実は、今の時点では、おそらく抗がん剤治療を受けないと思う。やはり、苦しい闘病生活は嫌だ。しかし、それはどんな場合でも、というわけではなく、がんを発見した時期が遅く、手術が不可能である場合や、転移・再発がんである場合に限る。もし、発見されたがんが抗がん剤で完全に治療することができる血液がんの場合は絶対に抗がん剤治療を受けるだろう。また、がんが早期に発見され手術で取り除くことが可能で、取り除いた後の術後補助医療としては抗がん剤治療を受けるだろう。なぜなら、抗がん剤治療によってがんの剤初率が低下するということが実験結果として出ているからだ。しかし、前に述べたように、その結果が私に当てはまるとは限らない。だから、抗がん剤治療を受けた場合にもしも日常生活が大幅に害されるのであれば、たとえがんの再発率が低下するのであっても、抗がん剤治療はやめると思う。また、もしもがんの発見が遅かった場合や、転移・再発がんだった場合は、抗がん剤治療は受けないつもりだ。いさぎよく、死を受け入れる。私自身、死を恐怖に思っていない節がある。人間が歳をとれば死ぬのは当たり前だと思っているし、ある程度の延命は良いが、無理に延命しすぎても自分が望むような生活を送ることができなくなってしまうとも思う。多少の延命は科学の発展として受け入れてもよい恩恵だとは思うが、基準がまた難しいのだが、あまりにも無理な延命は人間という一動物がしてはいけないことではないかと思っている。話が大幅にそれてしまうのであまり言及しないが、人間は同時にヒトであり、すなわち一哺乳類すぎないといことを自覚するべきなのではないかと思う。また、そもそも、私はそこまでして生きたくはない。おそらく、家族にも治療費や看病などの負担がかかってしまうし、それなら、死ぬ直前まで苦しまずに家族と楽しい時を過ごしたい。もし、がんが大きくなり、内臓を圧迫し、普段通りの生活を送ることができなくなるぐらい苦しさを感じるようになり、家族に負担をかけてしまうようになったら、ホスピスに入りたい。そして、ある程度ホスピス生活を楽しんだら、安らかに逝きたい。しかし、子どもの入学式、結婚式が控えていたらそのようなことを思うことができるだろうか。なんとしてもその日までは延命したいと思ってしまうような気がする。それはもう、信じたくはないが、“運命”というものに任せようと思う。具体的なことはその状況にならなければ分からない。

 私自身ががんを患った場合は上のような行動をとるつもりだが、もしも家族ががんを患った場合、私はどのような行動をとればいいのだろうか。もしも、がんを患った人が、十分な知識を持っていてそれをもとに治療法を決定しているのなら、その意見に従う。しかし、十分な知識もなく「先生がこの治療法がいいって言っているから」という理由だけで治療法を選択しているのなら、すぐには賛成しない。まず、私が持っている知識をすべて教え、それらを考慮したうえで判断してもらいたい。もちろん私だけの知識では不十分だろうから、もしその「先生」と話すことが可能であれば、先生がなぜこの治療法をすすめるのかを尋ね、また、私が考えていることを伝え、納得のいく反論や同意をもらうなどして、私が治療法に対して十分に理解するよう努力したい。患者は、自分ががんを患っているという事実を知ると、おそらくパニックに陥り、現実を受け入れがたいと思うから、第三者であり、少しだが、がん治療の情報を知っている私が、客観的に情報を得て、患者に教えることが重要になってくるのではないかと思う。では、がんが発見されたのが遅い場合や、転移・再発がんだった場合はどうか。私は、抗がん剤治療を受けないでもらいたい。家族で過ごせる最後の時間を楽しいもので終わらせてもらいたいし、私も楽しい時間として終わらせたい。冷たいと感じるかもしれないが、家族が死ぬのは当たり前だし、受け入れなければならないことだと思っている。だから、無理やり、苦しみながら延命するよりも、どうせ死ぬのだから、苦しまずに楽しんで逝ってほしい。

しかし、もしがんを患ったのが子どもだった場合も同様のことを思うことができるだろうか。おそらく無理だろう。だが、幸運なことに、小児がんは完治する可能性が高いという事実がある。もう、それに賭けるしかないと思っている。でも残念なことにがんの発見が遅れたとしたら、小児がんであっても、死ぬ確率は高い。そうなれば、苦しい治療はやめにして、家族旅行をいっぱいして、思いっきり楽しもうと思っている。苦しそうな顔ではなく、楽しんでいる顔で思い出をいっぱいにしたい。しかし一方で、「愛のパワーで奇跡の生還」というようなこともよく耳にする。私は努力を全否定されている気がするので、奇跡というものをあまり信じたくないのだが、まさに“奇跡”が起こっているのも事実で、アンビバレンスな感情を抱いている。だから、もしも子どもががんを患ったときに、奇跡にすがってしまうような気もする。そのような行為は科学的ではないことはもちろん理解しているのだが、しかし、奇跡が起こっているのも事実だ。果たしてどちらが良いのだろうか。今の私には結論が出せないでいる。

 私のがん治療に対する認識はこのようなものだ。基本的には、無理な延命に反対する。そして、なによりも“楽しい”人生を最後まで、望む。しかし、自分自身だけだは今の時点で結論を出せないでいることも多い。おそらく、その状況になるまで決めることはできないと思う。だから、その状況になっても冷静に結論を出すことができるように、今は正しい情報を得続けることが、自分にとって大事なことなのではないかと思う。

 

<参考文献>

・『死の準備』(2001)近藤誠・日垣隆山田太一吉本隆明ほか 洋泉社

・『拝啓、患者サマザマ』(2003)入野忠芳 中公新書

・『抗癌剤 知らずに亡くなる年間30万人』(2005)平岩正樹 祥伝社

・『あなたのがん治療本当に大丈夫? セカンドオピニオンQ&A』

 (2005)キャンサーネット・ジャパン 三省堂

・『抗がん剤の作用・副作用がよくわかる本』(2007)佐々木常雄 主婦と生活社

・『抗がん剤は効かない』(2011)近藤誠 文芸春秋

・『「余命3ヶ月」のウソ』(2014)近藤誠 KKベストセラーズ

・『「抗がん剤は効かない」の罪 ミリオンセラー近藤本への科学的反論』

 (2014)勝俣範之 毎日新聞社