10/12 今日の授業 まりも

今日は霜田先生のお話を聞かせていただきました。

<前半>
 まず水俣病から他の環境問題、「いのち」に関わる問題(生命倫理)に共通する課題について考えました。抽出された問題はまとめると、以下の3点になります。
 1.有害物質と症状の因果関係が示せず、魚が様々な症状の原因と分かってから10年以上も放置された。
2.役所の考える国益のため国民の健康が犠牲になった。行政と司法の判断は違う...
3.世間の知や無関心、さらには「異物排除の力」があった。

1.水俣では最初猫が踊って死んだ、人間にも奇病が出てきた、という事が起こり、その原因が調べられました。しかし当時は魚が原因であることまでしか分からず、具体的に「―」という化学物質が「―」という臓器に作用して奇病を引き起こした、という明確な因果関係は示せませんでした。その時に魚をとり、食べることを全面的に禁止すればその後たくさんの人の病気を防ぐことができたでしょう。しかし、役所は「原因究明こそ先決であり明確な原因が分からなければ対策はとれない」と反論し、汚染物質は10年以上も垂れ流しにされたのです。
 しかし実際に証明することは人体実験もできないので不可能です。不正確ながら統計的に示すことぐらいです。水俣以外でもこの言い訳で多くの有害物質が長い間放出され、今も垂れ流しの件もあるということです。...アメリカ、中国の原水爆実験地の周辺地、アメリネバダ州の研究所の風下地域など。
2.1でのような回答の裏には原因物質の放出元であった窒素工場は当時の日本の産業のホープだったため、行政としてはその運営を邪魔されたくなかった、という腹がありました。また、その後の裁判においては、当時の医学会の最高水準の学者に医学的妥当性を述べさせて、その事実を利用するということも行われました。また、その学者が今地位ある人物であることは決して偶然ではないでしょう。こういったことをふまえ、裁判では被害者側が勝ちました。行政と司法の判断は違うのです。
 国益を優先する国家、その犠牲になる国民、という構図は日本においてだけでも相当の事例があります。ましてや全世界でその数は知れません。先進国と、その犠牲になる発展途上国の例もあります。
3.患者達が一生懸命訴えても無関心な人が多かったようです。マスコミが動き始めてやっと少し関心が向けられました。多くの人は手のかかるものが排除されるのは仕方ないと思っている「異物排除の力」があり、それは生物学的に我々にはその本能が組み込まれているのかもしれないが、それを自覚し、訴える人達の声に耳を傾けるぐらいはしなくてはならないのではないか、と先生はおっしゃいます。

<後半>
尊厳死について。
尊厳死を考えるとき、最も重要なことは本人が死にたい、とはっきり示すことです。ヨーロッパやアメリカでは個人主義が発達している背景があり、死の自己決定権として、自分の望むときに望む方法で死ぬことは当然だ、とする国もあります。しかし、「生きるに値しない」と価値判断したからといって命を終わらせてよいのか、という疑問や、また、これは日本独特の考えとしてですが、今生きる障害者への圧迫が増す、という反対があります。

◆感想
何よりも印象的だったのは霜田先生の熱さです。本当に私達に話すために全力を尽くしてくださっていて、とても嬉しくて、私も全力で聞くことができました。また先生のお話は情報量が多く、例も多くて分かりやすく、私は今日のテーマについて主体的に考えることができるようにまでなれたと思えるほどです。尊厳死に関する法律を制定する際には本当に慎重さが要求されるんだ、と思いました。また、異物排除の力にできるだけ抵抗したいな、と改めて思えたことも今後の私にとって大きいことだと思います。今日は本当にありがとうございました。