ハンセン病を生きて―きみたちに伝えたいこと―を読んで (6)

 私はハンセン病について、去年の科学の森による生命論の発表で初めて知った。ハンセン病とはどんな病気なのか。感染するのかしないのか。何も知らなかった。また、私には人権を阻害されたこともないし、隔離されたこともない。ハンセン病になった患者達が被った苦しみを全て分かることは出来ない。
 「ハンセン病を生きて」の2章で、筆者はアイスターホテル宿泊拒否事件について述べる。その中でハンセン病の入居者自治会を批判した手紙を紹介していた。例えば、"一言、苦言申し上げます。あなた方が病気になられたことに、国民はなんの責任もありません。世の中には難病になった人は多く、十分な治療も受けられず、苦しんでいる人は、これも数多くいます。額に汗して長年働き、税金を納め、それでもリストラになった人も、これまた数多くいます。そんな国民が納めた血税であなた方の生活が保証されてきたのです。そんなことを一度でも考えたことがありますか。一度でも考えたことがありますか。一度でも感謝の気持ちを持ったことがありますか。"
 筆者が言いたいのはそういうことではない。強制的に隔離され、差別された苦しみをいいたかったのだろう。
しかし、最初にこの文章を読んだとき、成る程そうだな、そういう人も出てくるよね。と納得した自分がいた。そんな考えを持ちながら読み進めていくうちに迫害されることが、強制され隔離されることが相手にどんな影響を及ぼすのか、私には思慮が足りなかったのではないかと考えが変わっていった。
 3章のT小学校の五年生の子供達がハンセン病について考えるとき、「人権」「偏見」「差別」等の用語を使うのではなく、教室で日常的に行われている、自分がしている、まだ自分が受けている「いじめ」や「シカト(無視)」を足場にして、社会的テーマのハンセン病へと迫っていた。人権とまではいかないが、似たようなことにいじめがあると気づいた。いじめは受けていないと分からない精神的な痛みがある。いじめた側には分からない大きな傷ができる。もし私がクラス全員から変な目でみられ、無視されたとしたら。誰もそんな私に無関心だとしたら。わたしは傷つくだろう。もしそれが自分の知らない人からにまでもされたら。私はいじめには計り知れない痛みが残ることを知っている。ハンセン病の患者はそんな痛みを、もしかしたらそんな痛みを、もしかしたらそれよりも、もっと大きな痛みをずっと受けてきたのだと思った。と同時に手紙にかかれた文章に納得した自分が恥ずかしくなった。
私は知らない事は偏見につながる可能性があることをこの本を読んで思った。そして、知ることの大切さを感じた。