ハンセン病に関する内容    F.M


私は中学一年生の時にドリアン助川さんの「あん」を読んだ。「犯罪を犯した過去のある千太郎の働くどら焼き屋で、元ハンセン病患者の徳江がバイトとしてあんを作り始める。徳江の作るあんは評判を呼び人気になるが、ハンセン病患者であったと噂が流れだし客足が途絶え、それを察した彼女は店を辞める。千太郎と常連客のワカナが向かった施設に居た彼女は、淡々と自分の思いを語りはじめる。」というのがだいたいの内容。私はこの本ではじめてハンセン病という病気、この病気によって生まれた差別や偏見について知った。徳江さんのおだやかで、でも強い姿に力をもらい、徳江さんに辛い思いをさせる世の中に大きな怒りが湧いたことを覚えている。しかしその後ハンセン病患者さんの写真をみて、(徳江さん以外のハンセン病によって手が変形した人と笑顔で握手ができるだろうか)そんなことを考えたりもした。できるか分からない。見た目の違う人を受け入れることはとても難しいことだ。うつるうつらないの問題やその人の人間性ではなく、単純にその外見を1度気味悪く恐ろしいものだと感じてしまえば受け入れることはとても困難だろう。その時はそんなふうに思った。結局は他人事だ。私は「あん」の中の徳江さんに感情移入してハンセン病について理解したつもりになっていただけで、何も分かっていなかった。
ハンセン病を生きて」を読んで私は、中学生の頃の考え方がどんなに危険で最低で間違えたものだったのかに気づくことができた。この本では小学生がハンセン病について学ぶシーンが多く出てくるが、特に小学五年生の子供たちの発表に対しての筆者の「そこでは「痛み」をもつ自分をしっかりと見つめながら、「差別」とは何か、「排除」とはどんな物なのかを考え、学ぼうとしていました。決してきれいごとを言いながら、自分を蚊帳の外においてはいませんでした。ハンセン病問題を、自分とは縁のない、遠い世界の特殊な問題としてとらえふのではなく、また単に知識の世界だけで終止符を打とうともしていませんでした。」という言葉は、一つ一つがグサリと私の胸につきささった。私はまさに、きれいごとで同情して自分を蚊帳の外におき、ハンセン病を遠い世界の特殊な問題として、知識の世界だけで終止符をうっていた。ハンセン病の問題だけではなく、どんな問題に対する姿勢もそうだった。この本に記されている子供たちは、自分の身近なところにある「いじめ」などと照らし合わせて深く考えたり、本当の「やさしさ」をもって起こった問題の真実をしっかりととらえている。これが私に、全ての人にあるべき姿だと思う。
過去の私のように、間違えた考え方を持つ人も多くいるだろう。アイスターホテル宿泊拒否事件のエピソードがそれを証明している。熊本県のあるホテルが、宿泊予約をしたのがハンセン病療養所の入所者であることを知ると宿泊を拒否し、それが問題となってホテルが廃業したというのが事件の流れ。これに関して当時、療養所の自治会に手紙が届いたそうだが、その内容は本当にひどかった。人間が人間に送ったものだとはとても思えない。また、「差別ではない区別だ。きたないものはきたない。自分の姿を知れ、お前らと一緒に風呂に入るなんて考えられない。ホテルに泊まろうなんて考えるな。」という手紙はもしかすると過去の私の思考でたどり着いたかもしれない言葉で、恐ろしくなった。根強い差別や偏見は時に、慣れて考えることや想像することをやめさせ、人間を人間でなくしてしまうのだ。
私が読んだもう1冊の本「輝いて生きる」は多くの写真や多くの元ハンセン病患者さんのエピソードが載せられている。ハンセン病の知識を得ることももちろん大切だが、今私に必要なのは実際にハンセン病患者となった人やその周囲の環境を見ることだと思いこの本を選んだ。写真から伝わる一人一人の人生や細かなエピソードは、ハンセン病の問題をどこか遠くの物語としてではなく、もっと近くにリアルに感じさせた。
「見た目の違う人を受け入れるのは困難だから関わらない、または排除しようとする」この考え方は多くの最悪な事態を招く。世の中にある差別や偏見はだいたいこんな思考回路から生まれる。ハンセン病について考えることは、病気を知ることだけではなく差別や偏見について、いじめについて、こういった問題との向き合い方について、色々なことを教えてくれた。

           (読んだ本)
            輝いて生きる―ハンセン病国賠訴訟判決から10年
             八重樫信之著