ハンセン病資料館見学 B12
ハンセン病資料館で学んだこと
○ハンセン病について
・「らい菌」によって引き起こされる感染症。主な症状としては手足の末梢神経の麻痺で、汗が出なくなる、熱や痛みを感じなくなるなど。さらに進行すると失明や失聴なども起こる。また、皮膚に斑紋や結節が生じる。そのため、古くから差別や偏見の対象とされてきた。
・1943年にプロミンという薬が発売され、治る病気となった。今では多剤併用療法(複数の薬を併用する)によって治療される。早期に発見、治療できれば後遺症も残らない。
・らい菌自体の感染力は非常に弱く、また、栄養状態が良ければ発症もしない。現に現代日本では年に数人しか発症していない。ただし、栄養状態の悪い途上国には今でも年に数万人が新しく発症しているところもある。
○近代以前のハンセン病患者
・信心が足りないため、遺伝など様々な原因が考えられた。
・患者の中には神社仏閣で乞食をしたり、八十八箇所参りをした人もいた。
○療養所のルーツ
・明治時代、キリスト教を広めるために日本に来た人や仏教の僧たちが自費で療養所を建設した。
・隔離施設ではなく、救済のための施設だった。
○国による隔離政策
・1907年に「癩予防に関する件」が出され、国の隔離政策が始まった。
・当初は、患者全員を収容することは念頭になく、路上生活をしていた患者を収容することが目的だった(諸外国から指摘を受けたため)。そのため、収容所自体のキャパシティも小さかった。
・しかし、感染症であったことや療養所が存在することなどから社会感情が悪化し、1931年に制定された「癩予防法」では絶対隔離、終生隔離が国の方針となった。
・療養所に関する国の宣伝や無らい県運動により、入所者は大幅に増えた。
・しかし、ただでさえ少なかった予算が増やされなかった。この影響については後述。
・1953年、「らい予防法」が成立。治療薬も登場し、治る病気となったにもかかわらず、強制隔離を続けるという内容だった。らい予防法は1996年になって廃止された。
○療養所の実態
・前述したように、予算が少なく、また入所者の数に比べ職員も少なかった。そのため、病状の軽い患者が重い患者を助けたり、働いたりすることが当たり前だった。特にきつかった仕事は医療補助や失明した患者の介助であったという。
・食事の量も療養所とは思えないほど少なかった。戦時中に至っては、犬やイタチなど、野生動物も食べなければならないほどだった。餓死する人も多かった。
・少ない人員で療養所を管理運営するために様々な方法がとられた。
入所するときの持ち物は真っ白になるほどの消毒を施す。
療養所内でのみ通用する通貨を使用する(逃走防止)。
厳しい規則で自由を制限する。不満を漏らすなどしたら、監獄房行きとなった。
実名を名乗ることができない。
結婚や祭りなどは認める(飴と鞭)。 など。
・結婚することはできたが、子供を産むことは許されなかった。
・重監房の環境は酷く、冬には零下20度まで下がることもあったという。凍死した人も多い。
○残る問題
・療養所に残る患者は高齢化してきている。これから彼らをどう看取るのかも大きな課題。
○感想
ニュースなどで軽くは知っていたが、今回の見学で詳しく知ることができて本当によかったと思う。その中でも強く印象に残ったのが、長島愛生園から対岸までの距離の長さで、25mプールより短いのに、対岸も見えるのに渡れないというのはよけいにつらかっただろうと思う。この経験をこれからの人生に生かせるような生き方をしたいと思う。また、時間が足らずに全然見学できなかったところも多いので、時間ができたらまた見学に行きたい。