マウスの解剖実験 感想  (3B36 gu)

遅くなってしまってすいません。
少しずつ振り返りながら書きたいと思います。


私はマウスを飼い始める前、マウスにただの実験動物として接しようと思っていました。以前ハムスターを飼っていたこともあり、極力愛着が湧かないようにしようとしていました。でも無理でした。自分の手で殺めなければならないと分かってるのに、かわいがっていました。
解剖当日、私はどことなく落ち着かなかったです。緊張や恐怖や好奇心やいろんな感情が入り混じっていました。河合先生の講義を聞いているときもその気持ちは変わりませんでした。頂いた資料に載っている解剖中の写真を見た時は「かわいそうだな」という感情で見ていて、どこか他人事のような感じでした。研究室からマウスを連れてきてから先生のお話を伺っている時もそうでした。ケージの中のマウスが必死にエサを食べているのを見て「そんなに頑張って食べてももうすぐ解剖されちゃうのに」、そう思ってしまいました。
解剖が始まって先生が前で見本を見せた時、初めて実感が湧いてきました。先生の解剖していたマウスはまだ息があり、手がかすかに震えるのを見て「私のしようとしていることはおかしい、生きているものを殺してまですべきことなのだろうか」という感情がおこりました。席に戻ると、麻酔中だったマウスがすでに息を引き取っていました。もうただの「もの」になっていました。体はまだ温かいのにもう二度と生き返ることはない、命は何とあっけないものなのか。
お腹を開いていくうちに、どんどん抵抗がなくなっていくのを感じました。私が解剖したのは妊娠初期のメスだったため、胎児も観察することができました。イクラのような弾力のある丸いものが10数個並んでいるのを見ても、私にはそれが胎児だとは思えませんでした。他の班の胎児は目や手がはっきり分かったのでひとつの「いのち」として認識することが出来たけれど、その前段階である球状の物体は私にとって「もの」でした。受精し、球状のものになってどんどん分化して個体の形を成す、その過程のどこで「もの」が「いのち」に変わるのでしょうか。
初めは恐る恐るだった解剖も、途中からは生物的好奇心によるものとなっていました。図表や教科書ではイメージがつかめず、覚えにくかった各器官も実際に解剖をしてみると形・色・場所など、すぐに頭に入りました。でも、解剖自体で「生」「死」を感じられたかはいまいちよく分かりません。私が「生」を強く感じたのは解剖後の片付け中でした。解剖で使った手袋やマスクなどを捨てたゴミ箱に、血のにおいを嗅ぎつけたハエがたかっていました。ハエは生きるために血のにおいを探す。それは死体があるから。他の動物の「死」はハエの「生」につながる。当たり前のことだけど、ハエを見てそのことを強く感じました。
河合先生のおっしゃった「初心を忘れてはならない」という言葉がとても印象にのこりました。慣れが「いのち」を「もの」にするのかもしれないなと思います。マウスへの感謝の気持ちと命を奪う瞬間に立ち会った時のあの新鮮な感情を忘れないでいたいです。